ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『枯れない世界と終わる花』: CG Commentary

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扱う主題は大きいが、とてもきれいにまとめてある短い物語。それぞれのキャラクターがものすごく立っていて、日々に疲れた私を心の底から癒やしてくれた作品。テーマ云々を講じるよりは、キャラクターの魅力や言葉を楽しく共有したい作品だった。今回はCG集の形でおおまかにふり返ってみたい。以下に疑問点と美点をひとつずつ挙げてある。

 

●「あたしだって、覚えてないくらい人の命を吸って生きてるんだから」

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ひとを送り、その命をもらって生き続ける姉妹たちは、世界をまわすための“天使”と呼ばれる存在である。ここで思いだしたのは、人間社会で培われた人間の倫理観を、人間以外にそのまま当てはめて恣意的に裁こうとした、『エルフェンリート』の世界である。新人類のディクロニウスは、種の繁栄のために人間を淘汰する存在であるが、彼らは人間ではない――いくら人間の姿かたちをしていたとしても、である。人殺しが罪だという不文律は、あくまで人間によって生みだされた人間のための倫理ないし自然法であり、だからこそほかの生物に当てはめることはできないはずなのである。ディクロニウスを人間の罪で裁こうとするのは、人間本位の浅はかな蛮行にすぎないと言える。

同じことが本作の天使についても言えるのではないか。天使の行為は人間の倫理ではかるべきではないにもかかわらず、姿かたちが同じ人間であるために、ひとは彼女たちを人間の倫理で裁こうとしてしまう。それは彼女たちがもともとただの人間にすぎないからでもあるのだろう。天使の行為はいわば、「ヨブ記」の神の行為などと同じく、自然災害のごとく人間の力を超えたものであり、それは変えるべくもない“自然な”現象に過ぎない。しかし『枯れ花』では、そうした人間の力を超えた外部の力をねじ伏せて変革するさまが描かれた。それがいったいどんな問題提起をなすものなのか、残念ながらいまの私にはわかりかねる。

 

●「私は、コトセが目を逸らしてしまった悲しみを見せてあげたい」

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『枯れ花』で興味深かったのは、ひとを送るたびに、姉妹たちのなにかが欠けてゆくという部分である。コトセにとってそれは“悲しみ”という感情であり、その心のひびに手をふれて、ショウは彼女の天使としての力を吸いあげていった。シュペルヴィエルの『海の上の少女』でも問題となったように、感情というものは、悲しみに限らず、誰かとの関わりのなかで生まれてくるものである。つまりそれは誰かにその感情を“教えてもらう”ということなのである。

だからこそ、マヤが最期の時間を使ってコトセに“悲しみ”の感情を教えるくだりは、なかなかに感じいるものがあった。彼女との関わりを通じてコトセは、ただ悲しみの感情を抱くだけでなく、喜びの感情にも溢れた自分の心のうちに気づき、悲しみと喜びが一体不二であることをはじめて知るのである。それは単なる欠けた感情の回復ではなく、感情のもつ複雑で不安定な性質をなぞるような深い洞察であったと言える。それにしても、非常に短いながらも、本作におけるマヤの存在感は眼をみはるものがある。

 

●Appendix

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