ワザリング・ハイツ -annex-

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市川浩『身の構造』を読む

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高校の現代文の授業で読んだ本である。もっとも、この本の価値がわかったのは三十代になってからだったような気がする。あらためてふり返ってみると、高校の現代文の教材は大人になってからの自分にとても大きな影響を与えており、先生方の時代を読む眼に今さらながら感嘆する。そして自分が影響を受けた本はすべて自己の問題に関するものだ。

『精神としての身体』という処女作の題が示す通り、市川は身体と心とを一体不二のものと捉え、両者の二項対立からは語りえない「錯綜体」としての身体について論じる。市川はまず「身」という日本語に着目し、身体が錯綜体であるがゆえに、この語がいかに多様な意味をあらわしてきたのかをあらためる。西洋と日本の文化における決定的な相違点は、こうした心身にかかわる問題、すなわち“自己”をいかに捉えるかに収斂されるだろう。デカルトが身体から精神をとりだしてしまったヨーロッパに対し、幸か不幸か、日本は身体に精神を収めたままの文化を育んできた。心を収めた身体、そもそも「身体」と「心」という区別すらない自分自身を指す語として、私たちは「身」という言葉を用いてきた。

ゆえに本書で市川が展開するのは、身体論ではなく、精神論でもなく、あくまで自己論なのである。錯綜体としての自己は、環境によって影響を受け、また自らも環境に影響を与える――市川はこれに「身分け」という言葉を当てている――ものだと考える。これは「作られたものは、作るものから独立したものでありながら、作るものを作って行く*1」と述べた、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一の性質でもあり、市川は自己をこうした矛盾を内包したものとして記述する。

他人の身になるのは、交換可能な人称的・役割的な私ですが、その私は同時にたえず自己組織化する交換不可能な私でもある。〈私〉は、こうした交換可能性と交換不可能性のダイナミックな統一の過程で、たえず自己を形成してゆきます。*2

この私は唯一絶対の存在でありながらも、絶えず他者との交換可能性をもつ存在でもある。日本人、男、文学者は世の中に数多くいるが、“日本人の男の文学者である私”はひとりしかいない。私たちはつねに一人称と三人称、あるいは非人称とを往き来しながら、世界に対してその場その場で身を開きつつ生きている。「それぞれ関係するものとの差異と対立によってさまざまの身のあり方が生起する*3」のであり、そのような他者との関係そのもの、あるいは関係する行為的主体を自己と捉えることができる。

つまり身は固定した一つの実体的統一ではなく、他なるもの――他なるもののなかには物もあれば他者もあるわけですが――そういう他なるものとのかかわりにおいてある関係的な統一である。そして関係の多様に応じて多重性をもち、実態のように固定した統一ではなくて、たえず統一がやりなおされる危うい統一が身の統合である。*4

これはV・v・ヴァイツゼッカーが述べた主体についての記述そのものであろう。「たえず統一がやりなおされる危うい統一」とは、環境の変化に際し自己を失う「危機/転機(Krise)」を乗越え、そのつど適した自己を更新、獲得しつづける主体性のことであり、生物のこうした不断の営為をヴァイツゼッカーは「ゲシュタルトクライス」と呼んだ。環境や他者の照返しを受け自己を変化させた主体が、また環境や他者に変化をもたらすこの連続に、市川は「そこに風土論が成立する根拠もある」と述べ、和辻哲郎をはじめとする風土的人間論へも目配せする。

自己はつねに様々な他なるものとからみあいながら共生的な関係を築いてゆく一方で、他と同一化する契機に出遭ったり、あるいは自己に亀裂をもたらし極端な自己同一化に陥ることがある。前者はたとえば、日本語の「うち」という代名詞にまつわる日本の慣習で、この代名詞が家庭のことも、家庭内の個々人のことも、先祖のこともあらわすという、極端な矛盾的同一化の例を想起してもらえればよい*。「うちのひとたちはそんなことしません」と述べるとき、その家庭の成員はみな「うち」というひとつの代名詞でまとめてあらわされ、区別されることがない。こういった文化が日本の村社会の源泉にあることは想像に難くないであろう。*これについては過去の記事を参照。

また後者については、市川も述べている通り、述語的統一による非日常的な自己同一化が挙げられるだろう。「女心と秋の空」は、「女心は移ろいやすい。秋の空も移ろいやすい。よって女心は秋の空である」という、これは「移ろいやすい」という述語を基点とした同一化の一例である。ここで等しく結ばれた主語「女心」と「秋の空」の組合わせが、たとえば非日常的で恐ろしいものであったり、「既成のものの考え方や世界の見方をひとまずばらばらに解体し」「われわれの安定している世界像を脅かし」てしまうとき、私たちはそのような言動をする人間を精神異常者と見做してしまう*5。しかし――これも別のところで一度述べたことであるが――それはあくまで私たちが共有する共通感覚*6をものさしとして見たとき、そこからはずれた考え方をしているというだけのことであり、そもそも“だれにとっての常識なのか”を私たちはまず考えねばなるまい。先にも述べたように、私たちは環境に応じた自己存立を目指し不断の自己変革を必要とする。精神病理に陥った人々は自己存立のために否応なく非日常的な自己変革を行っているにすぎない。それは生きてゆくための自己防衛であり、私たちが場合に応じて様々な仮面を使い分けるのと何ら変わりはない。これがすなわち市川の言う錯綜体としての「身」の正体であろう。

*1:西田幾多郎「行為的直観」

*2:『身の構造』「〈身〉の風景」

*3:同掲書「〈身〉の構造とその生成モデル」

*4:同掲書「〈身〉の構造とその生成モデル」

*5:同掲書「〈身〉の構造とその生成モデル」

*6:中村雄二郎『共通感覚論』