ワザリング・ハイツ -annex-

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西田幾多郎を読む

f:id:SengChang:20171121223722j:plain木村敏がなぜ西田を重要視したのかが最近になってようやくわかってきた。西田は矛盾する要素を併せもつ主体として自己を捉え、また行為する働きそのものとして捉えてもいる。すなわち自己とは、他から働きかけられる存在でありながらも、他に働きかける存在でもあり、そういった他との関わりという行為を通して不断に更新されてゆくものなのである。ゆえに自己は非連続的であり、かつ連続した主体でもあり、その在り方が自己を“関係の関係性”として捉える木村の精神病理学と強く響きあったのだと言えよう。

檜垣立哉も指摘するように、「「行為する私」と「生成する世界」、それら両者がむすびつく地点に、西田がみてとる「現実」が定位される」(檜垣立哉西田幾多郎の生命哲学』序章)。

主体が環境を、環境が主体を限定し、作られたものから作るものへという歴史的進展の世界においては、単に与えられたというものはない、与えられたものは作られたものである。与えられたものは作られたものであるということは、環境というものが主体的に摑まれたものということでなければならない。(西田幾多郎「行為的直観」)

 

「実践」であり、「働き」であり、「ポイエシス」(製作、創出、作ること)であること。自ら自己形成される世界であること。徹底的に、動きつつ変わりゆく、そうした世界の現場に自らを投げこむこと。そして、そうした「行為」の立場以外からこの世界をみないこと。これは、西田の発想の根本的な基軸をなしているのである。(『西田幾多郎の生命哲学』序章)

「自己は環境によって『作られたもの』であり、環境は自己を『作る』ものであるが、しかし同時に自己は環境を作り、環境は自己によって作られる」(小坂国継『西田幾多郎の思想』第15回)。絶対的にちがう自己と他者の両者は、互いによって生みだされながらも、互いを生みだす主体の実践、すなわち「作用」として捉えなおされる。「真の自己同一は静的同一ではなく、動的発展である」(「自覚に於ける直観と反省」)とあるように、西田は自己をあくまで「作用」ないし「働き」として捉え、常に他者と「からみあう*」「行為的自己」として描出する。*主体と環境世界が互いに働きかけるさまを形容したW・w・ヴァイツゼッカーの用語(『ゲシュタルトクライス』)。

個性的に自己自身を構成し行くということは、作用から作用への連続ということではなくして、作られたものから作るものへの連続でなければならない、即ち、歴史的連続でなければならない。作られたものは、作るものから独立したものでありながら、作るものを作って行くのである・・・・・・。(「行為的直観」)

このように相反する要素、互いに矛盾する性質を併せもつものとして自己を深く描いてみせるのが西田の哲学の肝要である。他をつくる存在でありながらも、他によってつくられる存在として、自己はそれ自身矛盾をはらんだ同一性を保持するのである。一例として西田は「道徳的自己があるということは、自己を不完全として何処までも理想を求めることであり、良心が鋭くなればなるほど、自己を悪と感ずるのである」と、道徳的人間のもつ矛盾した性格についてふれている(「叡智的世界」)。自身の道徳性を追求すればするほど、その者は自身の罪深さを強く意識するようになり、自己矛盾に陥るというパラドックスである。自己とは常にこうした自己矛盾をはらんだ主体であり、これがのちの「絶対矛盾的自己同一」の考え方において結晶化する。

絶対矛盾的自己同一については、人間の自己だけでなく、世の中に存在する万物に関しても同じように捉えて然るべきである。たとえば、現在は一瞬にして過去となるものである一方、その積み重ねが未来を形づくるゆえ、現在は過去と未来を包摂したものであり、過去-現在-未来は区別されるものでありながらも同一性に帰するものと言わざるをえない。

多と一の絶対矛盾的自己同一の世界においては、主体が自己否定的に環境を形成することは、逆に環境が新なる主体を形成することである。時の現在が過去へと過ぎ去ることは、未来が生ずることである。(「絶対矛盾的自己同一」)

西田の描く世界はこのように、古典的な二項対立の世界でもなく、ひとりの媒介者から個が切りだされてゆくという絶対者の世界でもない。まったき他者どうしである個と個が互いに働きかけ、互いを新たにつくりだし、さらには自己自身を更新してゆくような、矛盾が矛盾のまま成立しうる世界なのである。そこではなにかが固定化された確かなものとして在りつづけることはなく、他者との衝突をくり返しながらそのつど自己を失い、そしてまた獲得するという「断続の連続」が――これも西田がくり返し用いる表現であるが――個の唯一の在り方として認められる。すなわち、一瞬一瞬の自己はすべて異なる自己であり、断絶していながらも、ひとつの自己として連続した全体を成し、かつ個々の自己が全体の自己を表象するような矛盾的自己同一として解される。

自己というものが超越的に外にあるのではなく、意識する所そこに自己があるのであり、その時その時の意識が我々の全自己たるを主張し要求する。しかもそれを否定的に統一し行く所に、真の自己というものがあるのである。我々の自己の意識統一においても、現在において過去と未来とが矛盾的に統合し、全自己が一つの矛盾的自己同一的現在として、過去から未来へと、生産的であり創造的である。(「絶対矛盾的自己同一」)

このようにして西田の哲学は、他者から切りはなされた自己というものを徹底的に斥け、ひたすらに他者との有機的な関係のうちで生成され、また生成しうる主体を自己として捉えたのである。「私ひとりが、この世界に関わらないかたちでたしかなものとして存在したり、できあがった世界の真理をすっかり見回したりするような、そうしたあり方を断固として拒絶する。むしろ、世界のなかで、いつも実践的な関わりをもちながら、具体的な「行為」として何かをつくりあげていく存在であること。そういう仕方でしか、リアルなこの世界の現実を描けないということ」(檜垣立哉西田幾多郎の生命哲学』序章)。それをくり返し主張しつづけたのが西田の哲学の大きな功績であると言えよう。

 

●付記

チャールズ・ラムの言葉を引用しながら西田は自分の生涯を次のように語った。「・・・・・・回顧すれば、私の生涯はきわめて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後ろにして立った。黒板に向って一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである」(『続思索と体験』「或教授の退職の辞」)。西田幾多郎とはこんなことを書いてしまうすてきな人間であり、日本の哲学を形づくった偉大なる叡智であろう。石川に行った際、西田幾多郎記念館がちょうど閉館日であり、建物を前に呆然と立ちつくしたのもいまはいい思い出である。

ドゥルーズニーチェキルケゴールウィトゲンシュタインレヴィナスヴァイツゼッカーといった西洋哲学者の著作、あるいは野矢茂樹大森荘蔵中村雄二郎といった日本人の著作も自分なりに読んできたが、やっぱり西田幾多郎が一番面白い。正しくは、問題意識が近い、というべきか。私にとって西田の哲学は、いまもなお色褪せない重要な問題提起を数多くはらんでおり、物語を読むにあたってこれまでも実践的に援用してきた。今後も長く参照する哲学者であると思うので、こうしてひとまず現在の問題意識をまとめておいた次第である。

赤きもの赤しと云はであげつらひ五十路あまりの年をへにけり(『西田幾多郎歌集』)