ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『WHITE ALBUM』を読む(感想・レビュー)

f:id:SengChang:20181109195545p:plain映像の意匠、カットやシークエンスのつくり方が芸術的すぎて、まるでヨーロッパの映画を観ているような気分になった――アニメ版『WHITE ALBUM』を観るのは二度目だったが、こんなにすぐれた作品だったか、と困惑したほどである。視聴に伴い、リメイク版『WHITE ALBUM』(PCのDL版)も少しプレイしたものの、アニメ版の完成度があまりにも高すぎてかすんでしまった。こちらはこちらでおもしろいのだけれど。そんなわけで、ここではアニメ版『WA』をとりあげる。なんでこれ評価低いの?

 

●”idol”という刹那

f:id:SengChang:20181109195550p:plain先人たちの分析によって、たとえば26話の副題「僕達は一緒に座っている、一晩中、動くこともなく」がブラウニングの初期詩篇「ポーフィリアの恋人」の一節"And thus we sit together now, / And all night long we have not stirred"(14)であることがわかっている。また2話で理奈が「電話番号おしえて」と書いた紙を挟んだページもやはり「ポーフィリアの恋人」であった。そして極めつけは、緒方英二がとり憑かれた絵画の少女がこの詩の少女の風貌そのものであり、また妹理奈とも瓜ふたつで、大変興味深い。原作でもブラウニングへの言及はあるが、「ポーフィリアの恋人」については言及されておらず、アニメ版で追加されたこの物語詩が、本作に文学的な妙味を加えたと考えてよいだろう。

バーナード・リチャーズ(Bernard Richards)が“At the instant when Porphyria surrenders herself to her lover he kills her, perhaps so that he can arrest the relationship at this stage.”(129)と述べたように、「ポーフィリアの恋人」は、ある愛の瞬間、刹那を刹那のまま自分のものにしようとした語り手が、恋人の首を絞めて殺してしまう詩である。

Be sure I looked up at her eyes

Happy and proud; at last I knew

Porphyria worshipped me; surprise

Made my heart swell, and still it grew

While I debated what to do.

That moment she was mine, mine, fair,

Perfectly pure and good: I found

A thing to do, and all her hair

In one long yellow string I wound

Three times her little throat around,

And strangled her. No pain felt she;

I am quite sure she felt no pain. (14-15)

f:id:SengChang:20181109195547p:plain「ポーフィリアの恋人」は、一般的な認識として、ヴィクトリア朝時代のイギリスが近代化とパストラルの断絶・軋轢に苦しむなかで、不変と変化を背景として書かれた作品であると言われる。産業革命以降、急速に近代化を果たしたイギリス国内、あるいは世界の移り変わりに反し、牧歌的な生活をとどめておこうという意識が、少女の刹那を永遠のものにしようという語り手の意識と重ねあわされる。“The ‘nomal,’ as Browning sees it, would involve change and acceptance of change”と言われるように、変化を拒絶し、変わらないものをとどめることに、語り手が恍惚とするさまは象徴的である(Richards 129)。

『WA』においてこれが理奈や由綺に投影されることは、刹那について言及される8話からも明らかである。

だからね、あたしを世に出したの。つまんなくなった自分の代わりに、刹那を見るために。線香花火のように、一瞬一瞬姿をまったく変える、刹那の連続。それなのに・・・・・・デビュー2年であたしは静止してしまった。できあがっちゃったのね、兄にとっては。

f:id:SengChang:20181109195546p:plainf:id:SengChang:20181109195548p:plain自分の限界が見えて飽きてしまったという英二は、ふたたび“刹那”を見るために妹の理奈を世に出した。20話では「理奈はおれの分身。つまりおれ自身。由綺は、それ以外の全部」と英二が語っており、また理奈が言うには、昔の自分を見ているみたいで気持ちが悪い、と英二は述べたのだという。理奈は英二のalter egoであり、彼女を通して英二は、自分が最上の刹那を手にした過去の道程をたどり直したのだと言える。そして英二と同じように理奈は「普通」になってしまった。『WA』はこうした“刹那”をめぐり、本物とはなにか、あるいは普通と本物のちがいはなにか、といった主題に切込んでゆく。

たった一枚の絵を探しつづける英二の姿は印象的である。彼は自分が探している絵を実は憶えていないのだが、彼が「偽」と朱書きした絵こそが、紛れもない当の絵だったことが暗に示される。英二がそれに気づかないのは、手に入れられない刹那を手に入れてしまったことで、刹那は刹那ではなくなり、永久に失われてしまったからにほかならない。だからこそ、理奈と由綺が英二の手を離れていったとき――英二の計略と大きく隔たったヴィーナスでのふたりのライブ時に――はじめて彼女たちは花開き、無限の可能性を手にすることができたのである。

f:id:SengChang:20181109195551p:plainリチャーズが指摘した通り、“普通”とは変化を受入れることにはかならず、手に入れられない非凡から、手に入れられる凡俗への変化が、アニメ版『WA』の大きな主題に据えられている。言うまでもなく、普通である冬弥とアイドルとの交わり、あるいは非現実的な生活への没入という点においても、この主題は大いに展開されたわけだが、このあたりはアイドルものの典型的な主題であり、ここであえてとりあげるまでもないだろう。いずれにせよ、アイドルをめぐる刹那の主題は、今作の舞台となった80年代あたりまでの、手の届かないアイドルという偶像崇拝が成立つからこそ、表現できた主題と言ってよいだろう。当時のアイドル産業は実に宗教的だといつも思うが、アイドルのもつ神秘を巧みに文学と結託させて、美しく描いた『WA』を私は高く評価したい。

 

<Works Cited>

『対訳ブラウニング詩集――イギリス詩人選(6)』(2005)富士川義之編、岩波文庫、2010

Richards, Bernards. English Poetry of the Victorian Periods 1830-1890. (1988) Longman: London & NY, 1990.

 

●付記

f:id:SengChang:20181109195544p:plain緒方理奈にとり憑かれた。

これはどう考えても恋愛物語ではないのだけれど、原作を知っているひとも含め、そう思って観るひとたちが大多数だから、残念に思う気持ちもまあわからないではない。冬弥やほかの人物の支離滅裂な言動に嫌気が差してしまうひとは、エリック・ロメールトリュフォーゴダールなどのヌーヴェル・ヴァーグ作品で耐性をつけてから本作に臨むことをおすすめしたい。

また、理奈と英二だけでなく、理奈と由綺も互いの分身(quasi-double)として捉えられるが、当たり前すぎて特に言うべきことがなかった。この主題は『WA2』において雪菜とかずさ、そして春希も交えてのペア合戦にもち込まれており、そちらの方に重要な問題を多数見出すことができよう。有志の加筆を待ちたいところである。

これから先、アイドルものでこうしたおもしろい作品が出てくるかどうかはわからないが、『WA』で扱われた時代の「手の届かない」アイドルと、現在の「逢いに行けるアイドル」とでは、またちがった主題が浮かびあがってきそうである。いまのアイドルになんの興味もない私が言うのもなんだけれど。

それにしても、“刹那”を描いた本作に続いて、それを受継いだ“雪菜”が軸となる物語が書かれたのは、やはり意図があってのことなのだろうか。

⇒『WHITE ALBUM2』を読む 前夜(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

⇒『WHITE ALBUM2』を読む 後夜(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

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