ワザリング・ハイツ -annex-

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『ONE』を読む(感想・レビュー)

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その後のノベルゲームの範型をつくりだしたとも言われる『ONE』は、物語の展開も含めてきわめてパターン化されており、「物語」というよりも「ゲーム」という印象を強く受ける作品であった。おそらくこれがもともとのノベルゲームの形なのだろう。プレイなかばでややだれるのは仕方ないとして、みさきと茜のルートは物語としてもおもしろく、そこそこ愉しめたかなという印象。せっかくなので気になったところだけまとめておきたい。

 

●「永遠の世界」の諸相

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これはどのルートにも共通するが、浩平は一番幸せなときに「永遠の世界」へ後退せざるをえなくなってしまう。幸福な時は永続しないという彼の想いが世界に映しだされ、世界の様相を大きく変えてしまうのである。ヒロインと浩平自身の想いによって、のちに世界は浩平を含んだ形に戻るが、その契機となるのは彼の“現在を意志する”心であった。世界のありさまが自分の心と照応する、いわゆるロマン派的な世界の展開はとても興味深いと言えよう。感情ひとつでこうして世界が形を変えるのは、たとえばボリス・ヴィアンの『日々の泡』やアンナ・カヴァンの諸作品で私自身が親しんだ、なじみあるマジック・リアリズムの特徴でもあった。

しかし『ONE』では、自分の感情に応じて世界が姿を変えるだけでなく、世界が自分の意に反して背を向けるさまが描かれる――最も深く関係を結んだ家族やヒロインから、まるで不審な人間を見るような眼で「あなたはだれですか」と告げられてしまうのである。自分自身の一部として、あるいは自分の心のありかとして未来を約束したヒロインは、一瞬にして見知らぬ人間となり、自己を根底からゆるがすような不気味な“他者”となってしまう。それはまさに、レヴィナスが想定したような「共通するひとつの概念にぞくする個体ではない」「絶対的に〈他なるもの〉」である(エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』「第Ⅰ部」*)。そして「この怪物的なまでに無垢な私を根源的な仕方で揺り動かすために近づいてくる」「自我と通じる間主観的な基層を共有しない」他者として、彼女たちは浩平の実存性を根底から崩壊させてしまう(内田樹レヴィナスと愛の現象学』「第二章」)。*岩波文庫『全体性と無限』より引用。

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『ONE』の興味深い点は、自己崩壊をもたらすこのような永遠の世界が、「ゲーム」の性質と物語とを直接紐づける役割を担ったり、現在と断続した過去として憧憬を呼び起こす世界であったりと*、一意的な意義をもたない世界として描出されたところだ。たとえば東浩紀が『ゲーム的リアリズムの誕生』で指摘したように、ナラトロジーを通して『ONE』を解体するとき、浩平が「永遠の世界」からヒロインのいる現実に戻ってくる過程と、私たちが現実から物語世界へ入りこむ過程とは自然と重ねあわされる。ゲームを手にとり作品をプレイする行為が「永遠の世界」からヒロインたちのいる“リアル”へ戻る行為として認識されうる、という捉え方である。*お風呂に入るときはおもちゃをもって入ったという幼い頃の瑞佳の習慣が瑞佳自身によって否定され、浩平と瑞佳の記憶の齟齬が語られる場面がある。実際におもちゃをもってお風呂に入っていたのは妹のみさおであり、永遠の世界を司る過去の記憶は、浩平の現在から切り離されているところも注目に値する。これは『AIR』の記事でもとりあげたように、心の決壊を防ぐために過去の記憶を改竄する、関係妄想の症状そのものであると言えよう。

理論分析を呼び寄せるような複相的な構造は確かに魅力的であるが、それは「ゲーム」としての性質から見れば当時においてもありふれており――1998年当時はすでに『YU-NO』が発売されており、同年には『serial experiments lain』も発売されている――あくまでプレイヤーをゲーム世界にひき込むための技術にすぎず、あえて特筆すべきことでもないのではないか。本作の各ルートの展開は「起床→登校→授業→昼休み→授業→放課後→帰宅→就寝」というサイクルが何週間もくり返され、そこで起きる諸々のイベントを選択肢によって組替えただけであり、物語と言うよりもゲームとしての攻略作業の色が強い点も、私がプレイ中かなり退屈したひとつの要因であった。ゆえにここではあくまで「永遠の世界」が『ONE』というゲームのなかで多岐にわたる役割を果たした点のみを評価すべきであろう。

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本作の大きな主題は、同じところにとどまり続ける、というものであり、「永遠の世界」はあくまでその基底として据えられる。声が出ない澪は、幼少期に果たされなかった約束に囚われ続けている。盲目になってしまったみさきは、まだ眼が見えた頃に思い出を重ねた学校のなかでだけ、自由に世界を思い描くことができるという。茜は、過去に生き別れた幼なじみの面影を忘れられずにいる。浩平は妹との幸福に囚われ続けている。永遠の世界はそういった膠着状態の心象風景としてあらわされたものでもあり、そこから脱却して現実に回帰するエンディングは、過去の枷をとり払って一歩前に進む克服の物語と読める。そのために、浩平とヒロインたちは一度別れを経験し、自分の足で立つためにひとりで苦境をのりこえてから、ふたたびふたりで生きる未来を手に入れるのであった。

しかしながら「永遠の世界」は、ヒロインとの幸福な関係を永続させるものとしては働かず、むしろそれを積極的に破壊するものとして、ある種の矛盾した働きをなす。ここにも「永遠の世界」のもつ不確定性があらわれており、ひとつの表象としてこれを捉えることには無理がある。そういった点も含めて、破壊と生成を併せもつ“絶対矛盾的自己同一”としての「永遠の世界」は、その後の様々なノベルゲームで敷衍された寓意のひとつと言ってよいかと思う。

 

●付記

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図書館に入るとき、一度つけた電灯を落とし、手探りのまま歩いてみさきの気持ちを理解しようとする場面はとてもよかった。それから年賀状のくだりもすばらしい。

正直に言って、ノベルゲームの歴史をたどる以外にこのゲームを進める価値はあまりない。それゆえ私も積極的にプレイをおすすめしようとは思わない。しかしながら、ある道に深く分入るとわかることだが、今現在あまり価値がなくとも、ある時代に重要視され、名を残すことになったものというのは多くあり、その理由をあらためて問いなおすことはとても意義深い仕事だと言える。

細々としたところで光るものはあり、その後のKey作品の礎を築いた作品であることは間違いない。私としては、本作をプレイするくらいなら『CLANNAD』を再プレイした方がよほど有意義だと思うが、新鮮な気持ちになれると言われれば確かにそうで、なんとも言いがたい奇妙な気持ちに陥った、というのが率直な感想である。あしざまに言っているようだが、すばらしい言葉が随所にちりばめられた作品でもあるので、興味をもったのであれば一度流し読みしてみるのもよいかと。

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