ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『ふたりのベロニカ』を読む

f:id:SengChang:20190103140443p:plainふと思い立って昔好きだった映画を観直している。ポーランドの映画監督クシシュトフ・キェシロフスキは自分にとってとても重要な人物で、私のなかの東ヨーロッパはこのひとの映画によって形作られたと言ってよい。ポーランドとパリを舞台にしたキェシロフスキの映画は、まるで顕微鏡で見ているかのようだと形容された通り、わずかな仕草や心の動き、言葉を注視し、色鮮やかに描きだしてゆく。

そんな彼の映画の特徴が詰まった『ふたりのベロニカ』は、いわゆるキェシロフスキ映画の入門篇とも言える作品であろう。偶然と必然、それに伴うifのシナリオは、キェシロフスキがひとつの事象をつねに複眼的な視点で捉えているなによりの証拠である。本作でもヴェロニカ(Weronika)/ヴェロニック(Véronique)というふたりの女性の人生を、両者の視点から互いに照射することで、単相的な一人称の視点からでは見えてこない、ひとりの人生の奥にひそむ偶然が前景化される。f:id:SengChang:20190103140439p:plainポーランドのヴェロニカは、自分がもうひとりいる気がするという感覚にとり憑かれ、街の広場で自分のドッペルゲンガー(ヴェロニック)を目撃したのち、歌曲のコンサート中に心臓発作で命を落とす。その一方でヴェロニカの分身(quasi-double)であるパリのヴェロニックは、大した理由もなく唐突に音楽を辞めたり、不思議な違和感を覚えて心臓の検査を受けたりする――また幼い頃には、とある予感を感じて深刻な事故を回避した経験があったりと、自分には霊感があるのだと彼女は信じつづけてきた。むろんそれがヴェロニカの過去の残響であることはヴェロニックにはわからない。ヴェロニカがたどった過去を深層で追随し、その直観に従って生きることで、ヴェロニックの現在はよい方向へと流れてゆく。f:id:SengChang:20190103140440p:plainf:id:SengChang:20190103140441p:plain言うまでもなくひとはこれを「偶然」と呼び、そのようにして幸福な、あるいは不幸なめぐり合わせを経験したときには、万感の思いを込めて「運命」と呼んで親しんできた。キェシロフスキはこうした偶然=運命を、ある人間の半身が歩んだ人生の残響として描き、ひとりの他者を自己の一部として捉えてみせる。私たちは総じて、自分ひとりではなく様々な他者からなるものであり、他者はまったき“他人”(the other)ではなくあくまで“別の自己”(alter ego)である。キェシロフスキの描く人物たちには、他者をどうにかして自分自身のなかに位置づけ、自己の一部として縫合しようという意識が見える。

他者がいなければ自己をうまく位置づけることができない、世界に自分ひとりだけなら自分を“私”として認識する必要すらなくなる、と述べたのは木村敏であるが、『ふたりのベロニカ』で描かれた自己と他者との奇妙な交錯は――同一化とも併存とも言いがたいその実存は――自己と他者との関係についての様々な主題を提起してくれる。それにしても、私たちが普段Providential intentionと捉えているものが、実はだれかの人生の残響であるとは、なんと美しい文学的想像/創造であろうか。f:id:SengChang:20190103140442p:plain