ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『神樹の館』を読む 後夜(感想・レビュー)

f:id:SengChang:20180116122018p:plain神樹の館』では、前夜でも述べたように、慣習的な日本の「家」について深い洞察があった。「うち」と「そと」の文化にふれ、家の全体性が個人の自己と同一視されるという現代においても問題とされる家社会の矛盾点を、物語として非常にうまくあらわしていたと言えるだろう。その点に加え、さらにもうひとつ、日本の“お話”には「奥」という重要な主題がある――ここでは『神樹の館』に織込まれた「奥」の主題についてとりあげてみたいと思う。

 

●「奥」の思想

f:id:SengChang:20180116122016p:plain本作の物語はすべてがうちにたたみこまれた「家」という神格で展開される物語であった。すべてのルートにおいて、館の神秘、すなわち館の奥に通ずる廊下を進んで、秋成はその深淵を突きとめようとする。いまや館は洋館の体裁であるが、一歩踏みこめば奥には日本家屋の廊下が長く伸び、竜胆との出逢いにいたっては、館のなかであるにもかかわらず外庭があらわれたり森の原があらわれたりするのである。竜胆は館の奥にひとりひっそりと身を隠しており、さらなる本当の深奥には、館の存立を司るあの「神樹」がそびえているのであった。

鎮守の森にしろ、その他の神社・仏閣にしろ、神話的中心は集落のはずれにあるわけです。山があるとしますと、ふもとに神社があり、その奥にほんとうの奥宮がある。・・・・・・日本人の聖なる空間というのは奥にある。これは家屋でもそうです。だんだんと奥へ行くほど価値が高くなる。奥へ通されるということは、丁重なもてなしをうけることになります(市川浩『〈身〉の構造』Ⅲ)。

 

村落構成としては、神社は丘の上、もしくは突きでた台地の上などにあるが、もっと後、山の行き詰まりの場所(「山のおく」)に、「奥宮」が隠れている。「奥宮」への距離は長く、道も曲がりくねっていて、険しい。球界がどこからでも見え、どこからでも行けるヨーロッパと違って、日本では、聖なるものは隠された、到達困難な場所に住んでいるのである。聖なる森(「宮の森」)は「神社」にとって不可欠で、神社はその中にひっそり姿を隠している(オギュスタン・ベルク『空間の日本文化』Ⅱ)。

f:id:SengChang:20180116122023p:plainf:id:SengChang:20180116122019p:plain「奥の思想」は建築家の槙文彦が提示したことで記憶に新しいが(『見えがくれする都市――江戸から東京へ』)、奥の間や奥座敷といった日本家屋の特徴だけでなく、森の奥深くに神を祀る「隠国」熊野や、古来よりある山岳信仰ひとつをとってみても、「奥に中心があるという感覚は、日本人がずっともち続けている感覚であるようだ」(樋口忠彦『日本の景観』第二章)。「奥」を巧みに用いた物語はむろん日本文学にも数多く存在する――谷崎潤一郎の「蘆刈」や「吉野葛」などはまさにそうであろう。たとえば「吉野葛」では、土地の深奥に踏みこみ歴史を紐解く語りに併せて、語り手の友人が自身の家系の歴史に深く分入り、自己を深めてゆく内省的な物語であった。言うまでもなくここでは史実を深く探求する心と自己の深奥に分入る心とが固く結びあわされている。『神樹の館』の「奥」の物語もやはり似た構造をもち、秋成が館の歴史を紐解きながら、神と人間との交わりの変遷を追いかけてゆく物語である*。*本作と同じ作家の書いた『霞外籠逗留記』においても、果ての知れない迷路のような旅館の「奥」が主題となった。

「今の世に、私達のようなモノが住まう場所はまだ残っていて?」という竜胆の言葉は、野本寛一が述べた次の言葉と深く響きあう。

「神々の風景」は総じて変貌が著しい。それは衰微・荒廃してきているといって間違いない。その変貌と衰微は日本人の「神」の衰微であり、日本人の「心」の反映にほかならない。すべての環境問題の起点はここにある。自然のなかに神を見、その自然と謙虚に対座し、自然の恵みに感謝するという日本人の自然観・民族モラルが揺らぎ、衰えてきているのである。(『神と自然の景観論』「緒言」)

f:id:SengChang:20180116122021p:plainf:id:SengChang:20180116122024p:plain野本の言葉に含まれた多分な示唆を論じるのは別の機会にゆずるとして、人間の自然に対する態度の変化と神々に対する価値観の変化は一体不二のものであり、周囲の環境の変化はそこに端を発すると野本は指摘する。館に囚われつづけた竜胆の悲しい現実は、彼女と大樹が人間からの“信仰”を授かってから、その信仰がもはや必要とされない時代に変化した、日本の近代化がもたらした悲劇なのであった。それは言うなれば、人々が「奥」の神秘をなくしてしまったがゆえの、神々の末路とでも言うべきものである。

自然に対する畏怖や敬意を捨てて未開の森を拓き、自ら「奥」をなくしてしまった現代の日本においては、「奥」の思想や神秘、そこに宿る神々は成立しえないのである。それを人間の側から描くのではなく、自然と神々の側から描いたところに、筆舌に尽くしがたい本作の魅力があったように思う。『神樹の館』は、古来から日本人が大切にしてきた「奥」に着眼し、そこにひっそりとたたずみ人々を見守る自然と神の神秘を、人間によってふたたび“見出してもらう”物語なのである。

 

●付記

f:id:SengChang:20180116122020p:plainCG Commentaryを書こうとしたら普通の記事になってしまい、前の記事を前夜と改め、本記事を後夜とした。

本作はいくらでも意義ある主題が見つかるような名作であり、私のなかでも五本の指に入る傑作である。これほどまでに奥深い物語がなぜ読み解かれないのか不思議でしようがない。ノベルゲームの界隈でも西洋的な物語が興隆しているからなのか、日本の“お話”を司るこうした作品が高く評価されていないのはいささか不満である。

水月』や『腐り姫』、『痕』をはじめとして、ノベルゲームには伝奇ものというジャンルがあり、本作もそのひとつであると言えよう。『向日葵の教会と長い夏休み』を除けば、ここ数年は秀逸な伝奇ものが出ておらず(私の情報網に掛かっていないだけかもしれないが)、ノベルゲームならではの趣向を凝らした物語が影を潜めている。すぐに理解できる物語が好まれる、近年の時流の影響は大変よくわかるけれども、それに抗う亜流こそがノベルゲームなのだから、今後もぜひ変妙奇怪な物語が多くあらわれることを願っている。

⇒『神樹の館』を読む 前夜(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

f:id:SengChang:20180116122017p:plain