読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『眠れる美女』を読む

文学(Literature) 文学(Literature)-川端康成 文学(Literature)-日本文学

f:id:SengChang:20170310011402j:plain

川端康成は日本ではじめてノーベル文学賞を受賞した作家であった。そのこと自体は誰でも知っているだろうが、こんなに気持ちの悪いことばかり書く作家が、日本の文学を象徴すると国外で認められた事実に自覚的であるひとは少ないのではないだろうか。私はとてもうれしいけれど。『眠れる美女』が海外で映画化されているというのも、東洋はexoticであるという、典型的なオリエンタリズムがいまだに根強いからなのであろう。

日本人作家の特徴のひとつは、丹念に色を塗るような、精緻で技巧に富んだ描写にある。時に執拗だと思われるほど丁寧に言葉を組みたてながら対象を異化する描写が本当に多い。川端や谷崎はそうした技巧に長けており、私たちの知っているものがまるで知らないものに変わる体験を静かに演出してきた。『眠れる美女』もその例外ではない。

添い寝をする娘たちは薬で眠らされており、客である老人たちは彼女たちのそばで眠り、なにもせずに朝を迎えると娘が目覚める前に部屋を退出させられる。娘たちは昨晩どんな男と床をともにしたのかもわからないままであり、さらには肉体交渉も固く禁じられている。

妖婦ではなくて、妖術をかけられている娘のようにも思われて来る。それで、「眠りながらも生きている」、つまり、心は深く眠らせられているのに、かえってからだは女として目ざめている。人の心はなくて、女のからだだけになっている。

眠れる少女たちから江口が感じとるのは、彼が夜をともにしてきた女性たちの眠りともちがう、また起きている女性たちともちがう、奇妙に開かれた性である。江口が少女にふれると、眠っているにもかかわらず、まるで醒めているときのように自然と少女の体がそれに応える。彼女たちの仕草は、完全に心と切りはなされているがために、純粋に男を誘うつややかな仕草に思われてくる。少女たちは「生娘」ばかりらしいが、眠れる女としては経験豊富な者も多く、江口によれば、そういった少女はみなすぐにそうだとわかるほど訴えかける魅力をもっているというのである。

ここでは、我々が日常的に見る他者の身体が、目覚めて働くおりとはまったく異なるものとして描出される。眠る娘のひとつひとつの仕草がすべて心を伴っていないがために、その仕草の意味を特定することができず、不可思議な身体の運動として捉えなおされてしまうのである。川端の文学が美しさを司るのは、私たちの周囲にあるありふれたものに眼を向けながらも、それらが私たちに対してもつ意味から対象をひきはがし、生のままもう一度提示してくれるからなのだろう。川端の小説を読んだひとならまず、彼がなにも特別なものを題材としていないことに気づくはずである。こうしたほんのわずかなゆれを捉えるだけで、たわいないものがここまで大きく変化して見えることを教えてくれるのが、川端の文学の妙味であると言えるのではないだろうか。