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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

エミリー・ブロンテ『嵐が丘』


先日、お世話になっている先生のひとりピーターが私のところへやって来て「昨晩、また君のことを考えていたよ。」と話しはじめた。彼によると、ヨークに新しくできた風力発電機が“Wuthering Heights”と名づけられたのだという。それをテレビで見た彼は、私がエミリーの研究者であることを知っているので、わざわざ教えに来てくれたというわけだ。

“wuthering”という形容詞はエミリーの造語である。彼女はそれを、丘の上に立つ屋敷の名前として用いた。嵐が丘は「屋敷の奥に群れ立つ幾本かのモミの木がねじけてひどくかしいで」しまうような丘の上に立つ屋敷のことで、周囲には見渡す限りの荒野が惜しげもなく広がっている。英国ヨークシャー地方、キースリーという小さな町の近くにある村、ハワースが舞台の小説である。ヒースクリフが叫ぶ通り、悪天候で外へ踏み出したら最後、元々道があってないようなものなので、方向感覚を失ったら、本道に戻ることが容易ではない危険な場所だ。そんなところで繰り広げられる物語は、少々常軌を逸している。いや、少々どころの話ではない。

二十世紀に入って文学理論が発達しはじめた辺りから再評価が著しく進んだ作品のひとつでもあり、この小説には実に様々な楽しみ方があると言える。ここでその楽しみ方を挙げるときりがないため、興味がある方は『「嵐が丘」を読む』などの参考文献を手にとって戴きたい。それでは、ここではどんなことを書くべきか、と私はずいぶん考えた。ホームページのタイトルとしても掲げている看板物語であるためいい加減なことを書くわけにもいかない。そこで私は、ここではひとりの熱狂的な読者として、純粋な問いかけをしてみたい。なぜエミリーは、こんな破天荒な小説を書いたのか。

こんなに暴力的で、非人道的な人物ばかりが出てくる物語も珍しい。はっきり言ってこの小説は、胸くその悪くなることばかりが連続して起こるとんでもない小説である。悪者でない人間は誰ひとりとしていない。語り手のネリーは嘘吐き、ロックウッドは思い込みの激しいあほ、ヒースクリフは暴君、キャサリンはわがまま、ヒンドリーは性悪、エドガーはせこい、などといった具合だ。この点に関して、エミリーの徹底ぶりは大したもので、当時は「よくこんな小説を自殺しないで書きあげられたものだ」と言われたほどである。

この小説は、自然現象をそのまま物語に置き代えたものであるとも言われる。『嵐が丘』に出てくる人物たちの特徴を描写する際、自然現象と結びついた形容詞をエミリーが意図的に用いていたことは、すでにマーク・ショアラーによって分析された問題でもある。人物は皆、自然のとある「状態」を表すかのように存在し、彼らの気性/気象は時に嵐のように吹き荒れ、時に凪ぎ、時に哀愁を誘う。自然が見せる「感情の変化」は人間のそれと完全に一致する。エミリーの意図はここにあるのだろう。美しい夕暮れを見て流す涙と、命尽きてゆく者を前にして流す涙は同じものであるということだ。

つまり、この小説がなぜ書かれたのかと問うことは、自然はなぜ美しいのか、なぜ残酷なのかと問うことと同じである。それは決して意味のない問いかけなどではなく、人間が生まれてこの方ずっと問いかけてきた原初的な問いそのものであろう。人間はなぜ時に残忍であるのか、と頭の中で考えるよりも、『嵐が丘』という一枚の絵を見た方がよっぽど容易く理解できる。そこには人間が本能を剝きだしにした姿そのものが映しだされており、そのあまりに正直で愚直な表現こそが、一五〇年以上経った今でも多くの読者を摑んで離さぬ『嵐が丘』の魅力のひとつであるとも言えよう。