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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

キャサリン・マンスフィールド 「子供らしいが、とても自然な」

文学(Literature)-マンスフィールド, キャサリン 文学(Literature) 文学(Literature)-イギリス文学


このひと際眼を惹く題名は、イギリスロマン派詩人S・T・コールリッジの同名詩からの借用である。「私に小さな羽根があり/かわいい鳥になれたなら/あなたの元へ飛んでゆくのに。」子供じみた発想だけれど・・・・・・というわけである。コールリッジの方は極めて明快、わかりやすいものであるが、マンスフィールドがなぜこの物語にこの題名を選んだのか、なにが「子供らしい」のか、それを突き止めるのはやや困難である。

小っ恥ずかしい、という意味で子供じみた部分は多く見つけられる。電車の中で出逢い、間柄を深めてゆく十八歳のヘンリーと十六歳のエドナには、大人びて見せようという何処か背伸びをした感じが窺えるからだ。今日はなにをしていたかと訊かれ「苦しんでいたよ」(君のことを想って!)と答えたり、「春のせいだと思います。まるで蝶を飲み込んでしまったみたい。ここで、ぱたぱた羽を動かしているんです。」などと言って胸を押さえたりと、頭を搔きむしりたくなるような描写がつづく。ふたりは情熱的に愛を深めてゆくが、ここに、マンスフィールド特有の?おち?がつく。

ふたり一緒に過ごす幸福な時間を夢想しつつ、ヘンリーは家でひとりエドナを待っている。そこに電報が届き、中を見た瞬間に?影?が彼を、家を、庭を、すべてを覆い尽くしてしまう。文字通り影が彼らを呑み込んでしまうのである。この場面をいったいどんなふうに解釈したらいいのか。あくまでこれは比喩的な表現であって、彼の心象風景を表現するために、雲かなにかが覆いかぶさる様子を描写したのだろう、と捉えることもできるし、型破りで前衛的な終わり方と捉え、本当に影が彼を呑み込んでしまったのだ、と考えることだってできる。

一九二四年に出版された『子供らしいが、とても自然な その他の物語』という短篇集には、もうひとつ鍵となる「毒」という物語が収録されている。ここで描かれているのは大人の恋人ふたりであるが、ふたりは何処かからの電報を怯えながら待っており、その理由は最後まで明かされない。そしてこの作品でもコールリッジの同様の詩が引用されており、ふたつの物語を結びつけるものとなっている。

我々にとってのなにか決定的なものが?便り?によってもたらされる、という事実は、私たちにとっても身近な問題ではある。「手紙にどんなことが書かれていたのか?」ということをついつい問題にしたくなるところだが、手紙の中身を知りようがないのだから、考えたところで仕方がない。このあたりがマンスフィールドの器量であると言っていい。手紙の内容は皆が気になるところだ。しかしそこを空白にすることで物語に奥ゆきをもたせ、読者の注意を別の場所に逸らそうとする。手紙の内容以外にも、この物語の中でもっと考えなければいけないことはたくさんあるだろう、というわけである。

モダニズムの作家というのは努めてこういうことを仕掛ける。ジェームズ・ジョイスは、誰も読めないようなわけのわからない英語で『フィネガンズ・ウェイク』を書いたが、そのひとつひとつの英文を翻訳するように「どんな意味か」などと考えて答えを出すことは不可能だ。だからこそ我々は「なぜこんなものを書いたのか」という問題の方へと足を運ぶ。ジョイスの場合はまさにそのためにこの小説を書いたわけだが、マンスフィールドにも同じことが言えそうだ。

これが本当の意味での、視点を変える作業であろうと思う。エドナが時おり口にする不安を丁寧に汲みとってゆくと、幸福を脅かす暗い影が常にふたりの背後で蠢いているような、そんな印象をもつ物語であることに気がつくのである。幸福の裏に潜む不穏な影に、慧眼なエドナは気がついている。そしてその影こそが、ヘンリーを呑み込んだ影そのものなのである。