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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

松浦理英子『裏ヴァージョン』


松浦理英子を読んでいる」と言うと私の教授は「うぇぇっ」という顔をするのだが、個人的にはとても好きな作家である。こてこてのフェミニズム小説を確信犯的に書く作家だが、私の論点はそこではなく、彼女の文体にある。頭が混乱して文章が書けなくなった時に彼女の書いたものを読むと、透明なセロファンかなにかを通して言葉を眺めているかのように、透き通った快感を覚える。私の好きな種類の文体である。

一見、フラットな文体であるように見える。しかしそれはフラットな文体を装っているからであって、実際にはそれが松浦理英子の書いたものだと、ひと目見ただけですぐにわかるのではないだろうか。久石譲の音楽や村上春樹の文章のように、注意深くなればすぐに誰のものかわかるのが松浦の文章である。

彼女の扱う事柄は常に性に関わるものであり、それもSМや同性愛、男根主義といった、あまり大きい声で言えないものばかりが並ぶ。ただ彼女の小説には、そういったものが含まれていることを感じさせない清潔感が漂っており、我々は吸いつくように彼女の物語に惹き寄せられてしまう。もちろん、性の主題が穢らわしいものであるということではない。性を扱う際に必ずといっていいほど伴う“粘り気”のようなものが、松浦の文章からは一切削ぎ落とされているのである。しかしそれは、物語とは直接関係がない。どちらかと言えば、文体は読書速度やレトリックに関わってくる問題であるが、松浦理英子に関しては、どうも物語と関わりをもっているように感じられてならない。

多和田葉子は『ナチュラル・ウーマン』の解説で「それは女性同士の性交という行為を可能にする場を丹念につくりあげる作業であるがゆえ、そこから逃げようとする者の無駄な視線の動きを切り捨てる文章の刃は薄く鋭い」と述べた。多和田の指摘はおそらく他の松浦作品にも適応しうる。彼女の文章が何重にも推敲された精巧なものであることは疑いがなく、そのため、からからと乾いた文章に仕上がっていながらも唐突に核心を突くような、読む者をひやりとさせる的確な言葉を随所にあしらった、読む者に注意を促す文章に仕上がっている。それは物語構造そのものと響き合い、この物語がなにかを「装った」話であることを窺わせる。

そう、まさに『裏ヴァージョン』はそういった戦略的な小説であった。この物語は、同じ一軒家に住みながらも原稿の交換だけをコミュニケーションの手段とするふたりの女性が語り手である。彼女たちの書いた原稿を私たちは交互に読むことになる。彼女たちは時に短篇小説を書き、互いへの苦情を連ね、日記のように思い出を綴ることもある(ふたりは高校の同級生であった)。彼女たちは原稿を通じて会話をし、一緒に生活しながらも家の中で交流することはほとんどない。

本当に彼女たちが書いているのか、あるいはどちらか一方のひとり芝居なのか、はたまた双方が嘘を吐きながら創り上げたひとつの大きなフィクションなのか―いや、そもそも彼女たちなど存在せず、すべて別の第三者が書いたものなのか・・・・・・読者には一切知る術がないのである。