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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

ユール・シュペルヴィエル「海に住む少女」


私はフランス文学から文学の世界に入ったが、まさにこうした作品を好むがために、と言い換えてもよいくらいである。謎や不思議が切なさに結びついたり、わずかな戸惑いをひき起こしたりする。「海に住む少女」もそうした一面をもつ短篇である。詩人であるシュペルヴィエルの散文を集めた『海に住む少女』は、表題作を含めた短篇集となっている。

英語には“thought-provoking”という形容詞があるけれど、これはそういう種類の「考えさせられる」物語である。マンスフィールドについて述べたことと似通っているが、なぜ少女は街にひとりきりで生きているのかを問うよりも、人間の想いがどれほど強いものであるかについて考えた方が、この物語の核心には手が届きやすい。人間の想いは時に不条理な事柄をひき起こしてしまうものだが、この作品はそれを寓意化したケースである。少女自身にはっきりとした感情はない。あるのは習慣だけで、そのことが更に切なさを煽る。いや、感情がないというわけではない―たとえ淋しいと感じていたとしても、そもそも淋しいという感情が存在すること自体を彼女は知らないのである。

しかし少女は時おり「なにか文章を書きたいという執拗な気持ち」にかられることがあるという。しかし彼女が実際に書くものは「これを分けましょう、どうですか?」、「聴いてください。座ってください。動かないで、お願いです!」、「ひとつの輪を作るには、少なくとも三人必要だ。」など、とりとめのない文章ばかりである。おそらく彼女は自分の本当に望む文章が書けない。それ以前に、どんな文章を自分が望んでいるのかがわからない。作家シュペルヴィエルの、書くことへの苦悩が垣間見える部分でもあろう。

シュペルヴィエルウルグアイ生まれの作家である。両親がフランス人で、フランスとウルグアイの間を往ったり来たりしていたのだが、基本的にはフランスで学を修め、フランス語で書くことを選択した。二大陸にひき裂かれて間を浮遊することとなった彼の生い立ちは、多くのひとの指摘通り、彼の作品へ大きな影響を及ぼしたようだ。この物語の中には確かに、フランス語という言語に対するシュペルヴィエル独自の姿勢がはっきりと見てとれる。ひとり机に向かって文章を書き連ねたり、文法書を埋めたりしながら「言葉」に触れる少女は、なにか物珍しいものでも見るような眼で言語を見ている。そしてそれはもちろん「自分と同じ姿をした少女」の映っている写真を見る時の眼でもあり、誰もいない街をぼんやり眺める時の眼でもある。シュペルヴィエルはきっと、母語であるフランス語というものを、時にまるで親しみを欠いた別の言語のように感じることがあったのだろう。なじみあるものであるのに、突然、わけもなく距離を感じる時のあの感覚を、シュペルヴィエルは見事に表現している。

日本では小川未明宮沢賢治が素晴らしい童話を書いているが、彼らの作品に親しい読者であれば、シュペルヴィエルの魅力もまた、とても味わい深いものに感じられることだろう。こういった物語こそ、今のような時代に読まれるべき物語であると私は思う。