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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

江國香織「デューク」


江國香織の良さはこの短篇を読めばわかる。二〇〇一年のセンター試験に使用され、テスト中に泣きはじめる受験生が続出したというあの物語である。当時受験生だったうちの姉が「現代文の問題が感動的すぎてつい読むのに夢中になってしまった」と語っていたことを憶えている。

彼女の小説はなんとも不思議な味をもっている。『ホリー・ガーデン』や『ウエハースの椅子』、『いつか記憶からこぼれおちるとしても』など、ふつっと途中で切れてしまったような読後感を味わう物語が多い。江國の面白いところは、誰かの人生の“ここからここまで”をばっさり切って、それをそのままレディメードのように読者へ差しだしてくるところだ。はじまりと終わりは、ほつれた糸をそのままにしてある。しかしその代わりに、一番“おいしい”部分の描写の細かさといったらない。読者はその密度の高い文章に酔いしれ、ふと気づいた時には物語はすっかり終わってしまっている、というわけだ。

それに対して「デューク」はもう少し整えられた物語であるが、江國の魅力が存分に発揮されていることは疑いがない。“大人のための絵本”という言葉がぴったりである。「デューク」を読んでいると、まるで自分がデュークという犬を飼っていて、そのことを代わりに誰かが書いてくれたかのような、そんな不思議な気持ちになる。そう、江國の小説に対して感じるのは、物語のもつ治癒力とも言えるものである。この物語を読みながら、私たちはなにかが癒されてゆくのを確かに感じる。母親が子供を寝かしつける時に読ませる物語のようである。その物語の中にいる限りは安全だ、というような気持ちはそのまま、もう一度読み返したい、という気持ちへ素直にゆきつく。

江國の更なる魅力のひとつは、ふたりの人間の距離感であろう。「デューク」の中では「私」と少年はお互いの事情や心情を一切語らないまま淡々と出来事が進行している。「私」の内的独白というものが存在しないため、少年に対して「私」がどう思っているのか、どうして一緒にいたいと思ったのか、それが最後まではっきりしないままである。その代わりに、プールの新鮮な心地、アイスの味といった少年とは関係のないところから立ちあがってくる新鮮な感覚によって「私」が次第にデュークを失った悲しみから生気をとり戻すさまを丹念に描きだす。デュークと一緒に街を回りながら、デューク以外のものの魅力を見出だし、「私」は少しずつ彼のいない生活へなじんでゆくのである。そのこともまた、切なさをひき立てるひとつの要因となっている。

世の中にはもっと複雑でかつ素晴らしい文学的傑作も数多くあることは事実だが、こういったシンプルで深く感動する物語は軽視されるべきではないと私は思う。未読の方には、今からすぐにでも手にとってもらいたい一冊である。