ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

宮沢賢治「いちょうの実」


宮沢賢治を読むと、なんだか心がほっとする。それは彼が、ほっとする暇もないような人生を歩んでいたからだろうか。彼の静謐な筆致は、岩手の大地に吹き渡る風のように美しく澄みわたっている。賢治は間違いなく日本を代表する作家である。

この短篇を知ったのは、知るひとぞ知る、大島弓子の翻案を読んだことがきっかけだった。はじめはこれが賢治の作であることを知らずに、いかにも大島弓子らしいな(人間化しているいちょうが)と思ったのだ。この物語に眼をつけた大島さんの慧眼も然ることながら、冬の入口を前に実を落とすいちょうを、旅立つ子供たちに見立てた賢治の独創性にも、ただただため息が出るばかりである。

子供たちは皆それぞれ“落ちること”について諸々の憶測やら迷信やらに思いをめぐらせ、旅立ちの朝を迎える。人間に食べられたら木になれない。みんなばらばらに別れてしまうんでしょう。こわいこわい、行きたくない。・・・・・・彼らの話を聴いていると、本当に枝の上でそんな話をしているんじゃないか?と思うほどに、いちょうの子供たちの会話は私たちのそれにとてもよく似ている。助け合おうとするところも。


「わたしと二人で行きましょうよ。わたしの(外套を)時々貸してあげるわ。凍えたら一緒に死にましょうよ。」


シュペルヴィエルの描いた少女も然り、子供には“知らないこと”が多くある。そのため、子供を描く際にはこの?知ること?がいつも何処かに顔を出す。彼らはこの先、自分たちがどうなるのか、いったいなにが待ち構えているのかを知らない。それゆえに、これは旅であり、親離れであり(ちなみに、いちょうの木は母親である)、冒険でもある。そのすべてが、なにか新しいものを“知ること”と結びつけられている。賢治の物語が支持されるのは、彼の物語がなにか新たなものを生みだしているからではなく、私たちの知っていることを別の角度から映しだしてくれるからなのであろう。