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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

朝吹真理子『きことわ』

文学(Literature)-朝吹真理子 文学(Literature) 文学(Literature)-日本文学


あるひとつの言葉や文が何重もの意味をもって、かつ物語のプロットをも支配するような、そういう類の小説が今はあまり日本で書かれていないというのはとても残念なのだけれど、それは同時に、小説の意義がそれだけではないことを身体をはって(誰かが?)実証しているようにも思える。それはさておき。

『きことわ』という小説は実に奇妙な小説で、なにかが起きそうで起きない、あるいはなにかが起きているのだけど隆起した言葉でそれを語れない、といったような、何処か抑制的な現代の性質を感じさせる。物語の随所に現れる違和感は、記憶を基点とし他者との関わりの中で高められてゆく。二十五年ぶりに再会を果たしたふたりが、以前遊びに来ていた別荘での出来事、その周りの情景、そういった共有しているはずのものを交換しながら徐々に、ふたりの間に記憶の喰い違いがあることに気づきはじめる。どちらが本当で、どちらが間違っているのか。それは二十五年の時に埋もれてもはやひっぱり出すことができない。確認する術をもたなければ、それは真実ともなり、嘘ともなりうる。こうした?揺れ?のようなものが、その後の挿話に多々現れている。

夢を見たあとに永遠子の娘は言う。「もし、全人類が灰谷君が幽霊になる夢を見たとしたら、灰谷君はほんものの幽霊にならなくてはいけなくなるかもしれない。」別荘から帰ってきた永遠子が夫と娘からの電話を受けた際には、いつまでも電波が繫がらず声がうまく聞きとれない折りに「ほんとうは夫も娘も誰もいないのかもしれない」と、貴子と逢った現実と今の現実とが同じものであることに強い違和感を憶えている。こうした表現はすべて「夢」という言葉に支えられていて、個々の挿話や文章だけでなく、物語の核心部分とも綺麗に響き合っていることが窺える。

随所に見られる多声的な文章に耳を傾けながら読むこともまた、文学から得られる大きな歓びのひとつである。『きことわ』は実によく図られた小説でありながら、文章もとても美しく、言葉のひとつひとつをゆっくりと味わって読むことのできる小説として評価できるものだ。こうしたものがもっとたくさん書かれることを私は切に待ち望んでいる。