ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

片岡とも『ナルキッソス』


原題のNarcissuは“Narcissus”から最後の“s”を落としたものであり、これは自殺(“Suicide” の“s”)を失くしたいという製作者の想いからきているのだという。

たとえ最初の三ページだけでも、この本は読む価値があると私は思う。言葉遣いがおかしくても、文法が間違っていても、エンタメが文化をリードしていることにはやはりそれなりの理由があって、この物語は確かにある種の説得力をもっている。セツミと阿東の言葉が、異様なほど力強く心に響くのだ。

元々この小説は同題名のゲームを原作としてもつ。フリー版として配布されたため自由にダウンロードが可能であり、いまや世界各国で翻訳版がリリースされている、百万ダウンロードを優に超えた名作中の名作である。そしてそこに新たな視点を加えた小説『ナルキッソス』は、次のようなセツミのモノローグから物語がはじまる。


お母さんは近所のお弁当屋さんへと、パートに出るようにもなった。
それがどんな意味を成すかは自分にも理解できた。
・・・・・・
新しく移ってきたのは、古くて少し汚い木造建ての新居。
狭くなった上に、お父さんの通勤時間は二時間を超えた。
逆に、わたしの病院への距離は歩いて三分となった。
そんなボロくて狭いアパートを前にしてお父さんは、
『ここは空気が良くて気持ちいいな』
そう言って笑った。お母さんも同じように笑ってみせてくれ
た。
・・・・・・
“お前のせいだ”
「きっと・・・・・・そう言って欲しかったのかもしれない」


死に対する恐怖や生きることへの希望には一切触れられることがない。ここで語られているのは、十数年もの闘病生活にかかっているお金のことや、仕事を増やした両親への気遣いや、そんなことばかりである。私がこの物語を好きな理由はここにある。娘になにかしてあげたくても、逢いに行きたくても、まず入院費を稼がなくてはいけないという現実に直面している両親の姿。セツミの言っている通り、もしも両親が倒れてしまったら、今の生活そのものが存続できなくなってしまう。そういう状況に家族を追い込んだ自分を棚に上げて、あれがしたいだのこれがしたいだの、決して言えはしないのだ。そしてそんな彼女の眼に映った両親の懸命に生きる姿は、私たちの心を強くうつ。なぜなら生活というものが、したいことよりもすべきことの方から成り立っていることを、私たちは知りすぎるほどよく知っているからである。

そんなふうに両親のことを慮っていたセツミだからこそ、最期のわがままが―この物語の結末が―多くのひとを納得させる。作者は物語の最後に不治の病を正面から主題としてとりあげ、彼女が選んだひとつの答えを読者の眼の前に突きつけてみせる。セツミの両親に対する思いやりを知っているからこそ、私たちは彼女の選択を全面的に否定することができない(また、ここでセツミの選択に批判的な人間を語り手に据えることで、どちらにも肩入れしない印象を保とうしている作者の手腕は大したものだ)。そして、同じ病気をもち彼女の最期を看取った阿東が、彼女のことを語り伝えるという、あとわずかな時間の中で自分がすべき大切なことに気がつく。セツミがもつことのできなかった目的のある生が、こうして阿東によって7Fにもたらされたのである。

『Narcissu -SIDE 2nd』を読む(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-