ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

柳美里『ゴールドラッシュ』


大学の時にはずっと敬遠していた作家である。というのは、書かれていることの生々しさにどうしても耐えられなかったからだ。しかし大学院でエミリ・ブロンテの研究をはじめてからというもの、こういった小説の方が自分の興味を惹きつけて止まないということに気がついた。

この小説を知ったのはロシア文学の授業を受けていた時のことで、ドストエフスキーの『罪と罰』における「父親殺し」という主題との符号を指摘すべく、この小説がひき合いに出されたのである。更には主人公の少年はラスコーリニコフにあたり、彼を救う響子はソフィーの位置にあたるという。こうした比較文学論は文学の愉しみ方のひとつであると思う。そのことを何年も憶えていて、五年ほど経ってからやっと、この小説を手にとった。その時に感じたこの小説のもつ力強さをなんと説明すればよいだろうか。

私たちの様々な営みを司る「力」―それは時に?暴力?ともなるが―と常に闘ってきたのが文学である。『ゴールドラッシュ』はそれを強く思い起こさせる小説だ。実際的社会の経済力を後ろ盾にした父親の絶対的な権力、黄金町に漂う貧困の力と、少年が内に抑圧してきた暴力的衝動、性の欲動といったもの、そうした諸々の力がひしめき合う社会を不可思議にも調和のとれた状態に見せている眼に見えざる力。しかしながら柳美里は、私たちの世界を少年の視点から描くことで、そこに一抹の希望を見出そうと努めているようにも思われる。


「何十年も前のことだ、金本は黄金朝のスナックの二階で馴染みの娼婦を抱いたあと、赤ちゃんができたの、あんたの赤ちゃんよ、明日堕ろすわね、と軽く明るく告げられた。空に上がる打ち損じのテニスボールのような声だった。あの娼婦は客でも友人でもない他者と性以外の物語でつながりたかったのだ。いま切実に他者を求めている自分もまた、だれかと物語を共有したいと願っているのか。この子と罪の物語を?」


金本の言葉には不思議とこちらの心を揺さぶるものがある。この物語に出てくる人間はすべて利害関係でのみ結びついているが、少年を必死に救おうとする金本や響子の利害を越えた情の力が最終的にはこの物語を解決する。画一化されてしまったために子供ですら社会の堕落を認めることができるようになった現代にあって、少年は大人と同等の力をもち対等な立場に立とうとする。そんな姿を、世の中の腐敗に対して少年が出したひとつの答えだと理解した金本は、そうじゃない、子供がそんなやり方をしてはいけない、と自らの信念に叛くような憐みをもって少年に接するのである。アダルトチルドレンを生みだしてしまう原因はいったい何処にあるのか。『ゴールドラッシュ』はそのことを真摯に追求した力強い作品である。