ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

ジョージ・エリオット『サイラス・マーナー』


エリオットの本に分厚く埃が積もっていると述べたのはかの有名なディヴィッド・セシルであるが、当時あった哲学サークルの中で知を養い、込み入った命題を物語の中に織り交ぜて表現したのがエリオットの小説の特徴であった。ヴィクトリア朝に活躍した女性作家の中ではずば抜けて頭が良かったはずである。一種戦略な構想を基に書き上げた『ミドルマーチ』といった名著については、確かに今日の読者が途中で投げだしたくなってしまう気持ちもわからないではない。ただでさえ長く堅苦しいヴィクトリア朝文学に、更に哲学的命題まで込められているとなると、もう手にとる気も失せる、といった具合である。

しかしながら『サイラス・マーナー』はそうではない。この小説に関しては、他の作品と共に埋もれてしまっているのがひどく残念である、と言わざるをえない。この本は、実は古本屋に行けば必ずと言っていいほど置いてある。そういう本も珍しい。それだけ、昔は多くのひとに読まれた小説でもあるということなのだ。この小説はいわゆる?寓話?である。教訓を含んだ、明快でわかりやすい、心あたたまる物語である。


「炉の前の床の上に、まるで黄金が落ちているように見えた。金だ―自分の金だ―盗まれた時と同じ不思議さで、また返されてきたのだ!・・・・・・しばらくの間彼は手をのばして、そのとりもどした宝をつかむことができなかった。彼のすっかりとりみだした眼の下で、その黄金の塊は輝きだし、だんだん大きくなってゆくように思われた。」(土井治訳)


親友に裏切られた過去をもつマーナーは、金を貯めることだけを生きがいにして、厭世的な暮らしをしている(この辺りはディケンズの『クリスマス・キャロル』に似ている)。ある日その金が盗まれ絶望に暮れている時やってくるのが、彼が盗まれた金と見間違えているエピーという赤ん坊である。エピーと金とは同じ「大切なもの」であるという点から同一視されるが、やがてその関係は変化してゆく。

マーナーはエピーによって温情をとり戻し、人間不信だった彼の心は彼女の思いやりによって癒されてゆく。金を奪われた代わりに彼が得たものは、本当はエピーではなく、他人を信じる心だったことが明かされる。

エリオットの恐るべきところは、この喪失から回復へ向かうエピソードに何重もの含みをもたせている点にある。このふたりの脇には、同じく喪失と獲得を経験するゴドフリーの物語があり、田舎町から産業都市へ町が変化してゆく、ヴィクトリア朝の産業化の背景があり(これもまたある意味では喪失と回復の物語である)、母親を失った代わりにマーナーと出遭うという、エピー自身の喪失と回復の物語もある。これをバランスよく組み上げたエリオットの才能は、やはり測り知れないものがあるのだと言えるだろう。