ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

中山可穂『白い薔薇の淵まで』


この小説をはじめて読んだのがいつだったのかもう憶えてはいないが、その後幾度となく読み返すことになった思い入れの深い一冊である。山本周五郎賞を受賞した本作は著者の作品中でも知名度が高い方だとは思うが、同性愛を扱った小説ということもあり、あまり広く読まれていないのが現状なのかもしれない。これは非常に残念である。

松浦理英子とは異なり、中山可穂の小説は恋愛に尽きる。それも文字通り、身を削るような情熱的恋愛物語ばかりが肩を並べる。しかもそれは著者当人の背景によって力添えされた確かな筆致で描かれるため、一度彼女の作品を読むと、ここまでやらないと恋愛小説じゃない、とまで思えてくる。コウルリッジよりもっと現実的な方法で、中山可穂は私たちに人間の感情の醜さをしかと突きつけてくるのである。

しかしそのような描出のあとで、たとえばクーチと塁が激しい罵り合いや取っ組み合いをしたあとで、水をうったような静けさが訪れる。余韻や残像だけがある世界、まるで現実などはじめからまるごとなかったかのように美しいその波紋の中で、次のような言葉が展開される。


「塁が男だったらとか、自分が女でなければとか、思ったことは一度もなかった。わたしは自分の性を肯定するように塁の性も受け入れ、愛した。性別はどのみち帽子のリボンのようなものだ。意味などない。リボンの色にこだわって帽子そのものの魅力に気がつかないふりをするのは馬鹿げている。自分の頭にぴったり合う帽子を見つけるのは、実はとても難しいことなのだ。(中略)だから、これだと思う帽子が見つかったときは、迷わず買ってしまったほうがいい。肝心なのは宇宙の果てで迷子になったとき、誰と交信したいかということだ。」


中山可穂の書く恋愛は、それまで私が思っていたものとは大きく異なった視点から捉えられていた。女は男、男は女を愛するもの、なのではない。女も男も、誰か“自分以外の人間”を愛するに過ぎない。そこに性別の問題は介入しない、というのである。私たちの愛しているのは“自分以外の誰か”であって“男”や“女”ではない。それを切実に訴えかけてくるのが『白い薔薇の淵まで』という物語である。冒頭に添えられたこのパッセージは、クーチと塁の関係を、各々好きずきに自分と誰かの関係に置き換えて読んでください、という中山可穂からのメッセージのようにも感じられる。