ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

多和田葉子 「ゴットハルト鉄道」


多和田葉子がすごい作家だというのは経歴を見ても一目瞭然だが、彼女の作品をいったいどのように読もうか?と考えた時、ようやく彼女の本当の魅力が理解できたような気がする。これはあくまで個人的な体験だけれども。いずれにせよ、国内での評価も然ることながら、彼女の世界的な評価は驚くほど高く、現代日本文学の中では最も重要な作家のひとりであると言える。

多和田文学の根幹は“言葉”にある。言葉の表象する領域を途方もないところまで拡げてみせるのが彼女の文学の特徴であろう。たとえばこんな文章がある。


「そのトンネルは、どこに続いているのか。目玉の向かっている方向が嫌でも前方ということになるのだろう。すると、トンネルの入り口は、わたしの後頭部の方向にあることになる。振り返って見ようとしても、振り返る度にウシロはウシロへ逃げてしまう。」


トンネルには当然、入口と出口がある。しかし、どちらが入口でどちらが出口かは、そのひとの向いている方向で変わるというのである。入口は出口にもなるし、出口は入口にもなる。ひとつのものに、確固たるひとつの意味が存在しない。谷崎潤一郎賞のスピーチで彼女が言っていたように、ドイツで『卍』を読む時にカバーをかけて読まなければならなかったのは、この記号から日本人が連想するものとドイツ人が連想するものとでは、決定的な相違があるからだ。シニフィアンシニフィエが絶えず移ろう。多和田はこうした問題を、翻訳と結びつけて考える。

「机」と言っても、ひとりひとりが即座に思い浮かべるその形、大きさ、色はすべて異なるだろうし、それこそが言葉のもつ曖昧さに他ならない。更に“desk”と英語に翻訳するとして、「机」という文字と“desk”という文字には明らかに接点がない。ひとつのものが別の文字で表象され、しかも個々のアルファベットは「机」という漢字とはまた別の文化的背景をもっている。なぜ机はdeskなのか。どちらがより精確に“あの家具”を表現した言葉だと言えるのか。そういった問題を土台としているのが、多和田の文学なのである。