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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

堀辰雄「風立ちぬ」


長野の自然が大好きな自分にとって、これほど肌の合う作家はこの先おそらく一生見つからないのではないだろうか。自然の写実的描写に心うたれ、それ以来というもの、旅行には欠かさずもち歩く一冊である。

風立ちぬ」は堀辰雄の許嫁がサナトリウムへ入院し亡くなった時のことを基にした中編小説であり、もしかすると“病院もの”の走りと言えるかもしれない。同様に病弱であった堀自身も何度か信濃サナトリウムで入退院をくり返しており、彼の小説からは常に病や死の気配がうっすらと感じられる。「風立ちぬ」でもまたうっすらとしか死の気配を感じないのは不思議と言えば不思議である。いや、感じないのではなく、むしろ常に存在する気配であるが故に、気をつけていないと気づかずに素通りしてしまう。それほど当たり前に死は私たちの日常に入り込み同化している。


「私の身近にあるこの微温い、好い匂いのする存在、その少し早い呼吸、私の手をとっているそのしなやかな手、その微笑、それからまたときどき取り交わす平凡な会話、―そういったものをもし取り除いてしまうとしたら、あとにはなにも残らないような単一な日々だけれども、―我々の人生なんぞというものは要素的には実はこれだけなのだ。そして、こんなささやかなものだけで私達がこれほどまで満足していられるのは、ただ私がそれをこの女と共にしているからなのだ、ということを私は確信していられた。」


節子とふたりで平穏に生きる素朴な人生を「私」は甘美で幸福な夢として尊ぶ。しかし後に、それが自分本位なものだったのではないか、本当に彼女は幸せに感じていたのだろうか、といった呵責にも苛まれる。この物語はあまりにも飾り気のない時間が流れてゆくだけに、一見すると彼の言葉通り、平凡な日々を写しとっただけのものに見える。しかしその日々は、実は節子の闘病の日々であり、死を待つ日々であり、平凡さは何処にも見当たらない。堀辰雄はむしろ、そうした中で営まれてもなお、日常が日常として機能すること、その贅沢をここに描きだしているのだと思われる。


「私は数年前、しばしば、こういう冬の淋しい山岳地方で、可愛らしい娘と二人きりで、世間からまったく隔たって、お互がせつなく思うほどに愛し合いながら暮らすことを好んで夢見ていたことを思い出す。私は自分の小さい時から失わずにいる甘美な人生へのかぎりない夢を、そういう人のこわがるような過酷なくらいの自然の中に、それをそっくりそのまま少しも損なわずに生かしてみたかったのだ。」