ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

チャールズ・ディケンズ 『デイヴィッド・コパフィールド』


私の先生はチャールズ・ディケンズを専門にしている教授である。当然、私は修士課程の時からディケンズに親しみかれこれ六年といったところだろうか、正直なところ、博士課程に入るまではディケンズの魅力がちっともわからなかった。先生の名誉に懸けて、その原因は私にある。テクストとしっかり付き合ってみれば、これほど興味深い作家もそうたくさんはいないだろう。

それはさておき、ディケンズはエミリ・ブロンテに勝るとも劣らないひどく読みづらい英語を書く作家だが『デイヴィッド・コパフィールド』の中野好夫の訳には目を瞠るものがあった。こういった訳へ手軽にあたることができるというのは、いいものである。未読の皆さんにはぜひここで、新潮文庫版の本書をお勧めしておきたい。

前置きが長くなってしまったが、ディケンズは十九世紀ヴィクトリア朝文学を代表する作家であり、現在最も有名な作品と言えばかの『クリスマス・キャロル』であろうか。多産型の作家であり、活力に溢れた、正義感の強い社会派小説を書くという一面もあった。『デイヴィッド』はわずか三十七歳の時に書いた自伝的小説(その後二十年以上も生きた)であり、自身の経験に依る挿話も多い。そんな本作であるが、次の一節を引用して、少し作品の魅力を紹介してみたい。


「もはやそれらの姿は、自分のことのような気はしない。なにか人生という行路の途中で、置き忘れてきたもの―そして自分というよりは、むしろただ通りがかりに見てすぎたにすぎない―いわば誰か、ほとんど他人のような気さえするのだ。」(中野好夫訳/第十八章)


この感覚が全篇を貫くようにして横たわっているのが本作の特徴であると言えよう。当時は“autobiographical novel”(自伝的小説)というものが流行した時代であり、シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』が売れたのを見て、ディケンズはこの小説を書いたとも言われる。真偽のほどはさておき、両者は大きく異なっており、その要因のひとつはこのような主人公デイヴィッドの感覚にあると言えるだろう。もちろんこの小説はデイヴィッド自身が書いたことになっているのだが、小説を書いている彼自身と、小説の主人公デイヴィッドとは大きく乖離していることがわかる。更に、デイヴィッドがこの小説を書いているのはいったいいつなのか、それもまた最後まで明確になることがない。するとこの小説は、書き手の現在が存在しないことにより、通常の小説と同様、自伝というよりもむしろフィクションの印象が強まることになる。

ヴィクトリア朝中期以降から少しずつ見えはじめるこうした語りのレトリックはモダニズムで一気に花開く。それをおそらく無意識的に採用したディケンズの才能は、測り知れないものがあったようである。