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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

インガー・クリステンセン『アルファベット』


多和田葉子が『エクソフォニー』の中で触れていたので手にとった作家である(“インガ・クリステンゼン”と彼女は書いていたが、デンマーク語ができないので正しい読み方がわからない。英語読みだと掲題の通りだろうと思うので、ここではそう表記する)。私が読んだ英訳版はスザンナ・ニエッドによる翻訳だが、本書はアメリカで翻訳賞を受賞したのだという。現在日本語訳は出版されておらず、おそらくこの英語版が最もアクセスしやすいものであろう。

この詩集に収められているのは長い一篇の詩である。それがaからnまで十四の章に分けられ、それぞれの章の冒頭はa、b・・・・・・nからはじまる単語で開始される。各章の行数はフィボナッチ数列に基づいて増えてゆく、とまあ数学に着想を得たレイアウトを用いた面白い詩である。言葉やイメージの反復(これもまた法則がありそうだが)により、あるイメージがまた別のコンテクストの中でくり返され、異なった意味や複合的な意味をもったりする。数学のように、数ならぬイメージを組み上げて有機的な繫がりをもたせてあるのだと言えよう。

最後まで詩を貫くひとつの主題は“戦争”である。“exist”(存在する)という動詞を多用することでその背後にある死を浮かび上がらせると同時に、杏の木も銃も原子爆弾も同じように「存在する」ことを謳う。人間と物の存在を区別しないことは、たとえば原爆が、人間と物を区別せずにこの世から消し去ってしまうことを暗に示す。コバルト爆弾について言及した件を引用してみよう。


 これ以上言うことはない
 私たちはその威力が
 強大に過ぎることを
 知っている―もはや
 これ以上言うことはない 私たちは

 自分たちの存在が
 全部か無のどちらかしかないことを
 知っている これ以上言うことはない
 すべてが無に帰すると
 わかっているから

 私たちはもはや
 無について、
 存在しないものについて、
 考える力をもたない
 この世界において

 私たちは単に
 存在しているだけなのだから
 もうこれ以上
 言うことはないと
 わかっている
 (拙訳)


このような兵器の前でいかに人間の存在が特別ではないのかが語られる。それまで世界に様々なものが「存在する」ことを延々と羅列してきたのは、まるで“すべては兵器によって一掃されうるので、区別する必要すらない”からだと言わんばかりである。またこの他、広島と長崎に触れた箇所も出てくるが、そこでは「最初に大量の人間が死に/その後死者は減ったが/結局は皆死んでしまった」という描写がある。死にかけている者はやがて死ぬのだから死者と同じだ、という悲惨な事実が現出する。「もうこれ以上言うことがない」のは、言おうが言うまいが、死んでしまうからである。
それでもなお言葉を発することに関して、クリステンセンはこう記している。


 私は書く
 アネモネ、ブナ、
 スミレ、カタバミの理解できる
 アルファベットで書く
 早春のように
 (中略)
 私は書く
 心が書く鼓動のように


誰もが読める言葉で書くこと。これはもちろん、誰もが読めるような書き方をする、ということである(ウィリアム・ブレイク『無垢の歌』における「序」のようである)。言葉を発することは無駄なことかもしれないが、それでも書くことには意味がある。語り伝えることにはきっと意味がある。死を前にした人間が語るべきことと、作家の書くべきこととが重なり合う、詩人ならではの描き方だと言えよう。