ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

エイミー・ベンダー「思い出す人」


人間ではないものを書くことは昔の文学でもそう珍しいことはもない。ラ・フォンテーヌは動物を主人公にして寓話を書いたし、アンデルセン『絵のない絵本』では月が語る。最近の日本の小説では数年前に川上弘美が『神様』で話題を集めたことも記憶に新しい。ディズニーやドラえもんが定着している今となっては、人間でないものが人間の日常に出入りして同じ言葉をしゃべっていても特になんとも思わない。そういう時代である。むしろそういう対象を扱いながら、彼らになにを語らせるのかを考える方がもっと重要である。

「思い出す人」のベンは逆進化する。「ある日まで彼はあたしの恋人だったのに、その次の日には猿になっていた。それから一か月がたち、いまは海亀。」(管啓次郎訳)彼の姿が見えないので、みんなが電話をかけてくる。しかし説明しようがないので、私は彼が病気だと嘘を吐く。するとみなあっさりひき下がってしまうのだ。私以外の誰ひとりとして、本当に彼を心配しているひとはいない。

表題からすれば、これは思い出をめぐる物語なのであろう。周囲のひとの記憶から彼の存在は瞬く間に消えてしまう。現代の時間の流れの速さを実感する話である。しかもその時間の激流に逆行して、「彼は一日あたり百万年を脱ぎ捨てている」のである。私たちの時代がそれほどの速さで進展していることの隠喩でもあるかのようだ。


「人間だった彼を見た最後の日、彼は世界はさびしいと思っていた。珍しいことではなかった。彼はいつだって世界はさびしいと思っていた。それが私が彼を愛していた大きな理由だった。私たちは一緒にすわり、さびしくなり、なぜこんなにさびしいんだろうと考え、ときにはさびしさについて議論した。」


「ぼくたちはあまりにも考えすぎだ」と彼は言う。その結果彼は考える必要のない生物へと?進化?してゆく。状況へ適応して、必要なものだけを身につけ不必要なものを切り捨てる。それが進化の過程で生物が行うことなのだとしたら、ベンが?考える?能力を捨てたことは進化の一種だと認めざるをえない。考えることはまた記憶することでもある。彼は憶えていることを止めたのだ。

ついにサンショウウオになってしまった彼に、私が語りかける。「私のこと、覚えてる?思い出って、あるの?」私が忘れてしまった瞬間、彼の存在していた痕跡はこの世から消えてしまう。彼を海へ?還した?その後も、「彼が思い出せずにいるといけない」というので、私は電話帳に自分の電話番号が載っていることを確認したり、あてもなく外を歩き回ったりする。それほど強く記憶に焼きつけなければ様々なことを忘れてしまうような時代に、私たちは今生きているのだ。