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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

谷川俊太郎『六十二のソネット』

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一篇の詩があって、その中に書かれていることを一語一語すべて理解するというのは不可能なことだと私は思っている。実際には自分のわかるところを思ったように理解すればいいのであって、詩は言葉遊びなのだから、その語感を楽しむことがまずは大切である。

谷川俊太郎は国民的な詩人であり、日本で育ったひとであれば、彼の詩を必ず何処かで目にしているはずである。「朝のリレー」などは誰もが知る一篇であるし、詩でありながら比較的読みやすいことも、人気が出たひとつの理由ではないだろうか。ここでは私が“理解できた”詩のひとつを引用して、谷川の魅力を紹介してみたい。


 私たちはしばしば生の影が
 しめやかな言葉で語られるのを聞く
 墓 霊柩車 遺言などと
 けれどもそれらは死について何も言いはしない

 生きている私たちは影よりも遠くを知らない
 無を失うことを私たちは知らない
 私たちは鏡をもちすぎている
 そのためいつもうつされた生ばかりを覗いている

 (中略)

 私たちは死をとりかこむ遠さにすぎない


私たちは墓がどんなもので、遺言がどんなものかを知っているが、だからといってそれらの言葉が死について教えてくれるわけではない。死という言葉は知っているが、それがどんなものかを説明することはできない。谷川はそう指摘する。もちろんそれは死に限ることではなく、ひとりの人間についてもそうである。名前は××で、××大学の学生で、趣味は読書で、やさしいひとで、という“鏡”はそのひとの“影”に過ぎず、それ以上のなにをも語らない。それだけ知っていてもそのひとを理解したことにはならない。本質を捉えることのできない、私たちが感じているもどかしいその距離を、谷川はここで“遠さ”と呼んだ。

これは言葉についての詩なのではないか。多和田葉子の回でも書いたが、「机」と“desk”のどちらがより正確に机というものを表しているのか、という問いがここにも隠れているように思われる。私たちは物事の本質を捉えることはできないが、便宜的に言葉を充ててそれらに名前をつけなければ、語ることができない。その時点で私たちは本質から遠ざかっているのであり、だからこそ終わることのない、しかし興味深い、“考える”という行為が意味をもつのであろう。