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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

萩原朔太郎『青猫』


堀辰雄が愛読していたというので手にとってみたのだが、よもやこんなにも相性のいい詩人だとは思わなかったので驚いた。何処か死の影がちらつく詩篇には自然が溢れ、客観的相関物とも言える描写がところどころに見てとれる。しかし、そう決めてかかるにはとてももったいないほど味わい深い表現のなんと多いことか。


 僕等はたよりない子供だから
 僕らのあはれな感触では
 わづかな現はれた物しか見えはしない。
 僕等は遙かの丘の向ふで
 ひろびろとした自然に住んでる
 かくれた萬象の密語をきき
 見えない生き物の動作をかんじた。


私たちは自然の妖しい力を無意識に感じとり、自分たちは眼の前にある物事をただそのまま受け容れているに過ぎないのだと自覚する。「おとなの知らない稀有の言葉で/自然は僕等をおびやかした」。眼に見えない自然の本質を前にしては、人間など単なる子供に過ぎないのだという戒めのようにも聞こえる。

また、萩原は他の詩人たちと同様、姿の見えぬ詩の女神(ミューズ)へ呼びかけることも忘れない。これは頓呼法(apostrophe)などと呼ばれる手法だが、彼の女神はその呼びかけにこう応える。


 「よい子よ
 恐れるな なにものをも恐れなさるな
 あなたは健康で幸福だ
 なにものがあなたの心をおびやかさうとも あなたはおびえてはなりません
 ただ遠方をみつめなさい
 (中略)
 いつもしつかりと私のそばによりそつて
 私のこの健康な心臓を
 このうつくしい手を
 この胸を この腕を
 さうしてこの精悍の乳房をしつかりと。」


応えるだけでも稀なのが詩の女神だが、萩原はこのように書くことで自らの絶望的な弱さを克服しようと試みる。興味深いのは、彼の描く女性がみな彼よりも屈強な心をもっているように見えることだ。現在に至るまで、しおらしい女性が文学における女性の典型となっている中、こんなふうに気骨のある女性が書かれていることはひとしお目を惹くところでもあるだろう。