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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

フランソワーズ・サガン『ある微笑』

文学(Literature)-サガン, フランソワーズ 文学(Literature) 文学(Literature)-フランス文学


誰かに文学について話す時、私は「フランソワーズ・サガンから文学に入った」と言う。その前にもサルトルの短篇やボリス・ヴィアンなどを読んではいたのだが(もちろん高校では漱石や谷崎なども読まされていた)、自分から手に取った小説から“文学”を感じたのはサガンがはじめてだった。その後はコレットカミュなど他のフランス小説へと関心は拡がっていった。

サガンの小説から私が学んだものは、言葉の妙技とも言うべきものである。それは翻訳者であった朝吹登水子さん(『きことわ』の朝吹真理子の大叔母)の原文に忠実な翻訳調の文章に因るところが大きかった。たとえば「私は今迄、パリに戻って来て、新たにパリを見出すという感じを持ったことがなかった。」という一文。原文を見てみると“Je n’avais jamais eu à retrouver Paris; je l’avais, une foispour toutes, découvert.”となっており、retrouverは「再発見する」、つまりここでは「新たな魅力を発見する」とでも訳すべきところである。しかし朝吹さんはフランス語そのままのニュアンスを用いて「新たにパリを見出す」としている。昔の翻訳調に馴染みのなかった私にとっては、これはむしろ画期的な言葉の遣い方だと感じたのである。

「かれは私を凝視めていたが、私の微笑を見つけると立ち上がった。」や「その中庭の上に、いつも中断され、虐待されているパリの空が蹲っていた。」などなど。なぜサガンはパリの空を「虐待されている」などと形容したのか? その時のドミニックの感情とどのように関係しているのか? こうしたぎこちない訳文が時に立ち止まって考える機会を読者に提供することもある。それが分かると、美しすぎる翻訳ばかり読んでいては翻訳を読んでいる意味がないのではないだろうか、とさえ思えてくる。

翻訳の紹介になってしまったが、あるいは朝吹さんがこんな訳文を選んだのは、サガン独特の文体のせいかもしれない。「ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。」(『悲しみよ、こんにちは』)という有名な書き出しからも分かるように、彼女の文章は特徴的なリズムと言葉のレトリックに依るところが大きい。この機会にぜひ、朝吹登水子訳の日本語で、サガンの著作を読んでみて欲しい。