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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

エミリー・ディキンソン『ディキンソン詩集』

文学(Literature)-ディキンソン, エミリー 文学(Literature) 文学(Literature)-アメリカ文学


外国文学に親しみのあるひとなら、原文で読まないと良さが分からない、といった話を一度は耳にしたことがあるだろう。ぴんとこないひとも多いに違いない。文章にはそもそも、母語の話者でなければ感じることのできない微妙なニュアンス(としか言いようがない)なるものが必ずあるので、それを精確に別の言語へ移し変えることなど到底不可能だということになる。その一例を、エミリー・ディキンソンの詩を紹介しながら見てみたい。

まずは日本語訳(拙訳)を見てみよう。


 私は指で宝石を摑み―
 眠りに落ちた―
 その日は暖かで、風はやわらかく―
 「宝石が失くなることはない」と私は言った―

 目が覚めて―私は嘘を吐かない自分の指を叱った。
 宝石が消えてしまったのだ―
 今や、アメジストの思い出だけが
 私のもっているすべてだった


近年の研究により、詩人が失くしてしまった「宝石」とは“詩”のことである、という解釈がディキンソン研究者の間で定着したようである。それはなぜか。要となるのは「風もやわらかく」の部分である。原文を見てみよう。


 I held a Jewel in my fingers—
 And went to sleep—
 The day was warm, and winds were prosy—
 I said “’Twill keep”—


イタリックにした“prosy”とは当然「散文体」のという意味で、詩と対照的なものである。散文的な穏やかさが詩のアイディアを奪っていってしまった。この詩はその切なさを詠っている。他の詩でもディキンソンは?詩?を宝石の比喩で表しており、これは一貫した彼女のメタファーであるということになる。

問題は、これをどう日本語に訳すかということであろう。英語の“prosy”にはふたつの意味があり、だからといって「風は散文的で」などと訳しては日本語としてあまりにも情けない。だからといって「風はやわらかく」とすれば、宝石が詩であることを読者が読みとることはまず不可能であろう。いやはや頭が痛い問題である。

海外文学には原文と翻訳それぞれの楽しみ方というのがあって、どちらを読むかにより常にその選択を迫られる。翻訳を読んでもできるだけ原文に近い楽しみを提供できるようにすることは、研究者の頑張りどころであると言えよう。