読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

ウィリアム・ワーズワース『ワーズワース詩集』

文学(Literature)-ワーズワース, ウィリアム 文学(Literature) 文学(Literature)-イギリス文学


イギリス文学において想像力や自然とくれば、まずはワーズワースの名前を挙げねばならない。彼はコウルリッジと同じく前期ロマン派に属する詩人であり、バイロンやシェリー、キーツといった後期ロマン派の詩人に先立つ最も著名な作家である。ここでは、モーリス・ボウラの著作『ロマン派の想像力』(The Romantic Imagination)を参照しながら、ワーズワースの作品「オード」を通して彼の想像力と自然について考えてみたい。

ワーズワースにとっては子供時代もまた大きな主題のひとつである。この詩では、生前ひとは誰しも天に生きていたという考えに基づき、その名残を抱いた、ヴィジョンの輝きを伴う神聖な時代として子供時代が捉えられている。歳を重ねるにつれてその輝きは次第に薄れてゆくため、ワーズワースはヴィジョンの喪失に対する嘆きを詩の冒頭で表現している。


 かつては牧場も森も小川も
 大地も、目に映るありとあらゆる光景が
 私にとって
 天上の光に包まれて見えた、
 夢の中の栄光と瑞々しさに包まれて見えた。
 だが今はかつてとは異なる。
 どちらを向いても
 夜であれ昼であれ
 もはや今、かつて見えたものを見ることはできない。(山内久明訳)


ボウラの指摘するように、自然を介して働くヴィジョンの力に触れながらワーズワースは育ってきた。彼にとって自然とは、慈悲深くやさしい、自らを包み込んでくれるものであり、それゆえ別の詩「ティンターン寺院」にも見られるように、絶望感に駆られると自然の只中に身を置くのである。自然詩においてワーズワースは精神と自然の調和を主張し、更にヴィジョンを伴う想像力がそこから生まれてくることを常に念頭に置いている。このような捉え方はロマン派詩人に一貫したものであるとも言える。

更にボウラは、ワーズワースとコウルリッジの相違点についても言及している。コウルリッジは自然と精神が一体であると認識していたのに対し、ワーズワースは、自分の精神がどうであれ、自然はいつも姿を変えることなく存在していると捉えていた。彼にとって自然とは心の状態に左右されて形を変えるものではなく、だからこそ触れれば等しく想像力を喚起してくれるものとなりえたのであろう。