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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

ジョン・ミルトン『失楽園』


シェイクスピアのすぐあとの時代に活躍し、ピューリタン革命の動乱期を生きたイギリスの偉大な詩人である。この『失楽園』執筆時に彼は盲目であったというのだから驚きだ。旧約聖書の『創世記』をモデルとし、ミルトンはそこに自身の想像的世界を埋め込みながらこの物語を大きく広げていったのだという。私の先生が「人類史上最初の夫婦喧嘩が書かれている」と酒の席で言っていたが、興味深いのは、それが聖書には書かれていないミルトンのオリジナルの挿話であることだろう。両者の差異を意識することが何処まで重要であるかをここで述べることはできないが、これがピューリタン革命時のイギリス政府に対する批判を念頭に書かれていることを最初に断っておけば、それで充分かと思う。

失楽園』の主題は膨大であり、従ってここでは人間の善と悪がどのように捉えられていたかを見てみたい。第五巻には次のような一節が出てくる。


「神はお前を完全なものとして
創造られたが、不変不動のものとして創造られはしなかった。
善なる者として創造られたが、その善を飽くまで保持するか
否かはお前の力に委ね、お前の意志を、不可避の運命或は厳しい
必然によって支配されない、元来自由なものとして定められた。」(平井正穂訳)


これはとても面白い考え方である。人間は生まれながらにして善であるということが、天使の口からここで高らかに述べられているわけだが、このような考え方が何百年、何千年も前から西洋には当たり前のものとしてあったわけである。つまり人間が悪を為す時、それは何かにそそのかされて悪事を働くのであって(サタンに誘惑されて知恵の樹の実を食べるイヴ)、だからこそ悔い改めればすべての人間には神の救いが訪れる。それを知った人間はどうしたかといえば、必然的に訪れる神の恩恵の上にあぐらを搔き、ひとを殺し、戦争をはじめ、様々な悪に手を出したというわけである。ミルトンはこれを次のように激しく糾弾する。


「人間よ、
恥を知れ、と私は言いたいのだ!呪われた悪魔でさえも、
悪魔同士で固い一致団結を守っているのだ、それなのに、
生けるものの中で理性的な人間だけが、神の恩恵を受ける
希望が与えられているにもかかわらず、互いに反筮し合っている。」


第二巻でのこのような批判はもちろん、当時動乱期にあったイギリス国内に向けられたものでもあろう。人間が本当に本質的善に恵まれているのかどうかは何とも言えないが、いずれにしても宗教を盾にとった“道徳的批判”がイギリス文学の至るところに鏤められていることは明らかである。これは十九世紀になるととみに揶揄されてひき合いに出されることも多いが、聖書からはじまる西洋文化圏内においては、大いに説得力のあるものであったことが窺える。