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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

サー・トマス・マロリー版「トリスタンとイゾルデ」

文学(Literature)-マロリー, トマス 文学(Literature) 文学(Literature)-イギリス文学


「マロリー版」と断ったのはもちろん、マロリーの書いたものがオリジナルではないからである。「トリスタンとイゾルデ」はイギリス中世騎士道文学の傑作『アーサー王の死』の一部を成す物語であるが、いまやオペラなどで最も有名な挿話のひとつとなっている。『アーサー王物語』を構成する複数の挿話はすべて「口承文学」、即ち口伝えにより残されていた物語なのである。それを寄せ集め、ひとつの書物にまとめたものが『アーサー王の死』として流通することとなる。膨大で入り組んだ物語の成立背景にはここでは触れないが、政治的意図や宗教的意図が『アーサー王物語』成立過程に影響を及ぼしているようである(『アーサー王物語』と呼ばれるものは複数存在し、他国版もあるので注意が必要)。

〝騎士道精神〟とはいったい何なのかを考えるために騎士道文学の代表格とも言えるこの物語を読むと、途端に読者は途方に暮れてしまうであろう。そこがこの物語の面白いところでもある。アーサー王に忠誠を誓ったはずのランスロットは彼の妻を寝取るし、トリスタンとイゾルデは媚薬を使って恋仲となるし、皆ずいぶんと滅茶苦茶なことをやっている。我々が一般に騎士道精神として理解している勇敢な精神―紳士でありながらも逞しく、芸達者で情も深いという典型的な考え方に、一抹の疑問を覚えると言ってよい。

こうした精神について言えば、キリスト教的な信条と結びついているところが更に興味深い点でもある。トリスタンは自分を毒殺しようとした女王に情けを掛けたり、自分の命とひき換えにしてでも国のために戦うことを決意したりと、つまりは自己犠牲と慈悲の精神を体現する存在である。こういった特徴を踏まえると確かに『アーサー王物語』がプロパガンダや宗教目的のために活用されたことも充分に頷ける。口承伝統である以上、ひとりの作者によって何か明白な意図の下に創られた物語ではないであろうが、こうしたものが何百年と経って一貫性を持ったひとつの物語にまとめられたというのは非常に面白い歴史的事実でもある。