ワザリング・ハイツ -annex-

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トマス・ハーディー『テス』


現代的な悲劇ということについて考える時この『テス』を一番最初に思いだすのだけれど、人間の力が及ばない巨大な影響力に運命を左右される古典的悲劇とは一線を画し、人間の〝悪〟がひとりの人間の運命を左右するというのが、現代的悲劇の特徴であると言える。『嵐が丘』がどちらに属するのかを決定するのは困難であるが、いずれにせよイギリス文学における現代悲劇のはじまりを『テス』に見ることは見当違いというわけでもあるまい。

ひとりの純情な乙女が家計を助けるために奉公へ出たその先で、強姦されて子供を身籠ってしまう。そこから物語には一切の救いがない。ヴィクトリア朝文学においていわゆるハッピーエンドは当然の潮流であったことからも、『テス』がいかに革新的であったかは容易に想像がつくが、しかし本作における魅力は、テス・ダーバヴィルの悲劇そのものにあるのではなく、むしろ彼女を通じて躍動する周囲の人物にあると言えるだろう。訳者の井上宗次さんがあとがきでこの物語を「社会環境の悲劇」と形容しているのも肯ける。

テスの人物像がひとり歩きしていることを指摘したのは、ペンギン版の序論を書いたマーガレット・R・ヒゴネットである。彼女はテスを「文化的な固定観念をつぎはぎして」作ったような人物であると述べている。これはとても面白い。確かにテスの、器量が良く、情が深く、純真で・・・・・・などという人物像は〝いかにも〟と言わざるをえない。

問題は、こうした「固定観念のパッチワーク」によってテスの本質が見えなくなっている点にある。彼女と恋に落ちるエンジェル・クレアという男もまた、彼女を自分の中で理想化し、その像に縛られてしまった結果、彼女が「穢された」女性だという事実を知った時、それをどうしても受け容れることができない。つまり、周囲の人間が自分の思い描いている勝手な像をテスに次々と押しつけたために、彼女は自分を見失い、最後には破滅してしまうのである。

性格は社会的環境の中で決定されると現代では考えられているが、テスはまさにその被害者であると考えられる。十九世紀末にすでに、二十世紀の五、六十年代から表に出てくる主題を扱っていたという点はとても興味深い。現代との架け橋ともなる、重要な一作であると言えるだろう。