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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

ウィリアム・ブレイク『無垢と経験の唄』


 あなたの楽しい笛を捨て
 楽しい唄を歌ってよ。
 そうして私はまた歌う
 その子は聴いて、涙に暮れた。

 笛吹きさん、座ってそれを
 みんなが読める本に書いてよ―
 そしてその子は消えてしまった。
 私は虚しい芦を一本摑みとる。

 それでひなびた筆をこしらえ、
 綺麗な水に色をつけ、
 私は楽しい唄を書いた。
 すべての子供が歓ぶ唄を。


『無垢の唄』の冒頭はこんな詩ではじまっている。あらゆる作家の原風景はこうしたものであるべきだ。誰かのために書くのでなければ、言葉は決して生きてはこない。

イリアム・ブレイクはロマン派を代表する詩人として知られるが、生前はまったくの無名であったと言ってよい。彫版師や下絵書きとして暮らしていたブレイクが、しかし七〇年の生涯で書き上げた詩は膨大な数に上る。その代表作がこの『無垢の唄』と『経験の唄』である。

“経験”を悪しきものとして捉えていたブレイクは、それに感化されていない無垢の状態を神聖なものと考えていた。だからこそ彼は「人間はあらゆる想像力である。神は人間であり、私たちの中に存在し、私たちもまた神の中に存在している」と、神と人間を同一視する見解を示した。また『無垢の唄』にもこんな詩が出てくる。


 なぜなら、慈悲、憐れみ、平和、愛は
 我らの父、神であるから。
 そして、慈悲、憐れみ、平和、愛は
 神のいとし子、人間でもある。

 慈悲はひとの心を持ち、
 憐れみはひとの顔を持ち、
 愛は聖なるひとの姿、
 平和はひとの衣服を持つ。


だからこそブレイクは、ひとがこの世で経験によって貶められてゆくさまを認めることができない。この主題は「失われた少女」や「見出された少女」、「虎」、その他名高い詩の中で何度もくり返し出てくる主題である。最後に、ブレイクの声そのものとも言える、経験に対する心痛の糾弾を『四人のゾア』からひいておきたい。


 経験の代償とはなんだろう? ひとはそれを唄とひき換えに買うというのか?
 それとも路上の踊りとひき換えに叡智を買うのか? いや、ひとは
 自分の持っているものすべて、家や、妻や、子供たちとひき換えにしてそれを買う。