ワザリング・ハイツ -annex-

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アルチュール・ランボー『ランボー詩集』


今から十年ほど前、一九歳から二十歳くらいにかけて、フランスの詩を浴びるように読んだ。ボードレールヴェルレーヌジャック・プレヴェールにエリュアール、アポリネール・・・・・・その中には当然ランボーも入っている。その頃仲の良かった友人が小林秀雄訳のランボーに傾倒していたこともあり、自然に手にとったのがはじまりだった。

特にふたりで話題に挙げていたのが、彼の代表作のひとつ「永遠」という詩である。フランス映画、特にヌーヴェルヴァーグに詳しいひとなら、ジャン・リュック・ゴダールの『気狂いピエロ』の最後にこの詩が引用されたことを知っているひとはいるかもしれない。冒頭の一連はこんなふうにはじまっている。


 また、見つかった、
 何が、
 永遠が、
 海と溶け合う太陽が。
 (小林秀雄訳)


友人とふたりしてなにがそんなに気になったかというと、「また、見つかった」の部分である。フランス語の原文では“Elle est retrouv ée.”となっていて、つまり「再発見(re-find)」という動詞が使われているのである。〝また見つかった〟ということは以前にもあったことを暗に示しているし、そもそもここでいう〝永遠〟とは、一度失くしてももう一度手に入れることのできるものであると認識せざるをえない。

また、これは詩の手法として一般的ではあるが、この冒頭の一連が最終連でもふたたび現れる。私たちは詩の最後に至ってふたたび冒頭へ連れ戻されてしまうのである。つまりこの詩は詩の主題そのもの―つまりはくり返される〝永遠〟そのものを、詩の形式をもって提示しているのだと言える。エミリー・ブロンテもまた、古い枝が枯れればまた新たな枝がいきいきと生まれ育つのだという延々くり返される生命の営みを、これに似た詩の円環構造を用いて示してみせた。どちらも〝永遠〟が主題となっている。

ランボーといえばヴェルレーヌとの同性愛がどうしても前面に押しだされてしまわれがちだが、「感覚」や「酔いどれ船」など、優れた詩を本当に多く書き残している。また、小林秀雄訳以外にも、中原中也訳なども味があってよい。