読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

小池昌代『小池昌代詩集』


記念すべき百回、五十冊目の紹介ということもあり、ここに来て誰を選ぼうかと悩んだのだけれど、本棚の奥の方からとても懐かしい詩集が一冊、見つかった。講演会を聴きに行ったのは七年ほど前のことだろうか。その時は四元康祐との共著『詩と生活』についてであったが、印象深いお話を聴くことができたのをよく憶えている。小池昌代は私がとても好きな詩人のひとりだ。

現代詩文庫の表紙に引用された「蜜柑のように」の一節をここでもまずはひいてみたい。こんな具合だ。


 蜜柑一個
 わたしたちはいつも
 それぐらいの何かを欠いて生きている
 やさしさは異物感
 ごつごつとして見慣れない固まり
 辺鄙な場所へ落ちた、とおくからの届け物
 深いポケットに指をのばして
 わたしはおそるおそる蜜柑に触れる


蜜柑好きにはたまらない一節である。芥川も蜜柑の短篇を書いていたが、海外の文学で蜜柑が題材になった例は見ないから、日本独自のものだろうか(そもそも欧米文学では、文化的背景もあって、林檎の印象が強すぎるのだ)。この詩は、部屋を出る時に「あのひと」が私のポケットに蜜柑を入れてくれた、というところからはじまる。それを語り手は、私たちが欠いているやさしさとして理解している。「あのひと」からふいにやさしさを受けとり、だからこそまるで異物だと思うのであろう。そしてこの詩は別れの詩でもあるようなので、「蜜柑一個」分の重さを持つやさしさは、もう二度と戻ってはこないやさしさでもある。

更に「くだもの」という詩では、果物はまた別のモチーフを提示する。


 出来事でつまった内側を
 表皮は決して語らない
 果肉のなかのすずしい午前
 ・・・・・・・・・・・・・
 すっかり皮をむきおわれば
 くさっていくよ と合図され
 その、せとぎわを口に含む
 食めば笑いのようなくだもの


何か大切なものを表象する果物の中身は、簡単には晒されることのない秘密として認識されている。大切なひとの「内側」が溢れるのはほんの一瞬―だからこそその時を捉えて味わえば、それは果物のように甘く得も言われぬ味がするのである。誰も自分の内側をだだもれにはしない、そんなふうに常に外に置いておいては「くさって」しまうというわけだ。