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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

村上春樹『ノルウェイの森』


これまで数え切れないほどたくさんの本を読んできたけれど、これほど特別な本は他にない。私はもう村上春樹の熱心な読者ではなくなってしまったが、この一冊だけは、一年に一度は必ず読み返している。十九歳から二十歳になる数日前に読んだ、自分の考え方や感じ方を大きく変えてくれた一冊である。

この小説のなにがすごいかというと、これほどまでに典型的でありきたりの話をどうしてここまで面白く書けるんだろう、というその一点にある。病弱な女の子や朗らかな女の子、死の主題、(少し特殊な)三角関係に若者の倦怠・・・・・・思わず赤面しつつも決して不快ではない。当たり前のことが当たり前に書かれている。特徴的である平板な語りも、この作品では非常に生きている。語りと同じく平板でやや冷笑的なワタナベ君が、恐れを捨ててひとと深く関わってゆこうとする姿勢も、強く胸をうつものがあった。

この小説にはセックスのことしか書いていない、と述べたのは村上本人であるが、確かに『ノルウェイの森』ではセックスがオープンに扱われている。そしてセックスした相手とワタナベ君は必ず別れている。永沢さんと漁りに行った女の子たちとはひと晩だけの付き合いであり、直子にしてもレイコさんにしても、最終的には別れが待っているのだ。セックスが死への衝動だと述べたのはサビーナ・シュピールラインだが、この小説では明らかにセックスが〝別れ〟の予感を孕んだものとして描かれている。だからこそ、緑とは最後までセックスしないままである。

性と死の結びつきはまた、キズキと直子の関係も深い影で縁どっている。直子が濡れないことでふたりのセックスは一度も上手くいくことがなかった。直接的な原因であるかどうかは分からないが、キズキはそのまま自殺してしまう。そののちに直子はワタナベ君と寝るが、その時に自分が驚くほど濡れたことに驚き、深く傷つく。キズキと直子もセックスを挟んで別れる公式を踏襲しており、しかもワタナベ君と関係をもったことで、彼女にとってそれは二重の責め苦となってしまう。

セックスは新たな命を育むもので、家族を形作るものでもあるから、本来は肯定的な結びつきを感じさせるはずであろう。しかし『ノルウェイの森』ではむしろ、それはゆき場のない想いを擦り合わせる行為であり、絶望の吐露、日常の中断、そういった否定的な表象でしかない。身体を重ねてもなお捌け口を見つけることのできない想いを抱えて生きる姿を見るのはとてもつらいが、その気持ちと真摯に向き合おうとした時にひとが見せるわずかな輝きは、やはり忘れがたいものがある。