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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『クラナド』を読む 第一夜

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1期14話に付された表題の“Theory of Everything”(万物の理論)とは、物理学が万有の理論として注目するひも理論を指す言葉である。実際に物語のなかで波動関数書物が出てきたり多世界解釈についての言及があったりするのは時流を感じさせるが、ここでその問題に立ち入るつもりはない。そこから導かれる物語構成の妙技よりも、琴美の父が述べる言葉のほうが心に強く刺さったからである。

真理を探求する者は傲慢であってはならない。

科学の言葉で語りえないからといって奇蹟を笑ってはならない。

この世界の美しさから眼をそむけてはならない。

 琴美にまつわる一連の回では世界の美しさについてふたつの方向から語られる。ひとつは、琴美の両親が研究していたという世界を記述するための自然科学の理論からである。間接的にしか語られないが、それは努めて簡潔なものであったとも語られており、世界の成り立ちを証明する真理として認識される。そしてもうひとつは、長い年月をかけて琴美のスーツケースを運んだ見知らぬ人々の絆からである。ここでは“Theory of Everything”は科学的理論ではなく、絆の起こす奇蹟として理解される。それは眼に見えない力によって働くものなどではない。人々の心身によって生みだされる眼に見える真理なのである。

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琴美の挿話ではとても大切なことが語られているように思う。自然科学と人文科学の相克はここにはない。どちらをもってしても等しく世界の美しさを表現することができる。また琴美の父の言葉は、理学に没頭して周囲となじまない琴実が次第に心を開き、自然科学で立証する必要のない、しかし大切な経験を重ねることを後押しするかのようでもある。『クラナド』では、どちらが正しい、優れているという態度ではなく、どちらも受け入れようとする態度が全篇にわたって貫かれている。

 

両親の研究を追いかけることでは解決できなかった琴美の悲しみは彼女の知らなかった“分野”の真理である友情によって癒されていった。そのうえで彼女は改めて両親の研究を受け継ぐことを選ぶ。選択して片方を斥けるのではなく、両者を受け入れたうえで、片方を自分の役割としてひき受けるのである。そこには両者を認めることができてもひき受けることはできないという哀切も窺える。大切な友人たちと別れて単身アメリカに渡る琴美の決意がそのことをよく物語っている。

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≪付記≫

自然科学と人文科学を結んで語った大家にはたとえばデイヴィッド・ボームというひとがいるし、身体の器官諸々の働きがわかったところでなぜひとが生きていられるのかを解明することはできないと述べたのはフランスの哲学者ジャン・リュック・ナンシーである。彼らの着眼は各々の分野が解決しえない問題についての相互助力を要請するものであろう。自然科学を追及すれば必ず倫理の問題に突きあたるというのはもはやひとつの定説だと言えるにもかかわらず、両学問分野の連携がいまだに軽視されるのは本当に残念でならない。

また、これは別の切り口であるが、「実は昔出逢っていたひととの再会」が本作にも物語の装置として使われている。もはやクリシェとなってしまった演出ではあるが、本作ではロバート・F・ヤングの『たんぽぽ娘』の一節「おとといは兎を見たの。昨日は鹿。今日はあなた。」を琴美がそらんじることで、朋也と琴美がヤングの小説の筋をなぞることが暗示される。紋切り型に嵌めるだけでなく別の鍵を埋めこんでおくところに丁寧な心遣いと遊び心を感じた。

≪参照≫

ブライアン・グリーン『エレガントな宇宙』(2001年)草思社

デイヴィッド・ボーム『全体性と内蔵秩序』(1980年)青土社

ジャン・リュック・ナンシー『侵入者』(2000年)以文社

ロバート・F・ヤング『たんぽぽ娘』(1961年)河出書房新社

 

⇒『クラナド』を読む 第二夜 - ワザリング・ハイツ -annex-