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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『クラナド』を読む 第二夜

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本作において時間軸が重要であることは先に述べた通りだが、この時間軸というのは「ループもの」を読解する際の一般的な手綱である。考察と銘打った“推理”を誘う作品は示唆に富むものが多いし、そういった推理は作品の価値を高めるのに必要なものでもある。村上春樹が流行するのも(*)、『CROSS†CHANNEL』や『素晴らしき日々~不連続存在~』の人気があるのも、ジャン・リュック・ゴダールの映画が重要視されるのも、語られない余白になにかを書きこみたくなる衝動を作品から受けるからにほかならない。

*加藤典洋の『村上春樹イエローページ』シリーズはその典型である。典型だけれどとても面白い。

 

クラナド』も例外なくそういった特徴を持つ作品である。しかしこの作品を考えるにあたっては時間軸が少々窮屈なものに感じられた。たとえば≪幻想世界≫は時間を超越したところに位置するため時系列を整理する際には便利なジョーカーとなってしまう。そしてどんなに綺麗な説明をしたところで、結局のところ、朋也が人生をやり直せた理由は奇蹟としか説明ができない。あくまでその奇蹟についていかに説得力を持たせるかの試みと読めてしまうのだ。そういった読みは、今回もやはり、この問題をもっとうまく扱えるほかの方々に任せたいと思う。

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時間軸を排したうえで改めて『クラナド』の作品構造に向きあうと、渚と汐の亡くなった人生と、ふたりと寄り添い生きる人生の、ふたつが並置されていることに気づく。“本物”は当然、後者ということになっている。ふたりを想う朋也の気持ちと町の想いが彼の人生に奇蹟を起こしたのだと理解できるように物語は語られる。その通りでよいと思う。朋也が懸命に生きる姿は本当に強く心をうつものがあった。

しかしここで、両者をともに本物だと仮定するならば、物語の様相はまたちがったものとして見えてくる。幻想世界がどんなインターフェースであるのか、ふたつの結末のどちらが本物らしいかは、ここではあまり問題にはならない。朋也と渚と汐が幸せに暮らした世界を最後に見るとき私たちは、ふたりが死んでしまった世界と、そこでの朋也の悲しみを思い起こす。当たり前の日常が、もしかするとあったかもしれない悲しみに遭わなかったおかげで、いまここにあることを認める。前述のように『クラナド』はとても平凡な物語である。結婚して、子供ができて、家族とともに生きてゆく。ただそれだけの話である。大切なのはそれをどの視点から眺めるかなのだ。私たちはこの平凡な物語を、挫折した少年がやっと摑んだ幸せを失う悲しみののちに経験する。悲劇に見舞われた朋也にとって、そしてそれを一度目撃した私たちにとって、幸福な結末はあるはずがない、しかしあったかもしれない一縷の望みであった。

「この世界が生まれるまでに、微細に封じこめられ、隠された世界がある」と言ったのは琴美の両親の共同研究者だが、その封じこめられた世界の想いが、朋也の絶望の叫びである。そしてそれを別の朋也は「長く悲しい夢を見ていた」と顧みる。想いが生んだ奇蹟というのは、なにも失意の朋也に同情したセカイが世界を彼のためにつくり変えたという意味ではなく、あったかもしれない悲劇の世界の感情が、平凡で幸福な現実を生きる朋也に強く働きかけたことを指す。私たちの生きるなにげない日常はそういう“あったかもしれない悲しみ”に見舞われることなく成り立っている、その奇蹟にどうか気づいてほしい、という切なる想いがここからは感じられる。

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これは美少女ゲームの文法を逆手にとった効果的な表現だと言えよう。マルチエンディングが慣習である美少女ゲームにおいて、あるエンディングを見たおかげで別のエンディングの感動が高まるというのは、常に起こりうる事態である。プレイヤーはある特定のあったかもしれない可能性の物語を一度経験したうえで、その経験を保持しながら、また別の可能性の物語を経験する。複数の物語をものさしとしてひとつの物語を読むこともある。『クラナド』はそのようなマルチエンディングの前提を応用し、別の可能性から平凡な幸福を照らしだす演出をうまくとりいれている。

言うまでもなく、だからといって最後の結末が“本物”ということにはならない。悲劇に陥った朋也の人生もまた“本物”のうちのひとつである。幸福な結末から悲劇の朋也を顧みるとき、むしろ私たちはこちらのほうにこそ強いリアリティーを感じるのではないだろうか。幸福な世界の陰に隠された皮肉な真実のほうがより現実的であるのは、なにげない日常という奇蹟がどれほど手に入れがたいものであるかを、私たち自身がよく知っているからである。悲しみに暮れた朋也にとって平凡な日常はまさにあったかもしれない奇蹟だと言えよう。幸福な世界の存在を知ったうえで、悲劇の世界の朋也を改めて思いだすとき、本作における奇蹟という言葉は私たちのなかで再定義される。

このように並立するふたつの世界は互いにとってのifでありつづける。互いの世界における朋也たちの想いはそれぞれオリジナルのない痕跡のようなものとして当人たちのうちに埋めこまれている。幸福の陰で悲しみに暮れる者の叫びを真摯に汲みとり、日常を奇蹟として再認識させる物語が、『クラナド』に描れた物語なのである。

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≪付記≫

幸福の裏側にある悲しみ/現実を描くのは『クラナド』の一貫した特徴でもある。朋也の父の過去や、朋也と渚の陰で失恋する藤林姉妹や智代、渚の両親が仕事をやめたことなど、幸せを形作るうえで決して免れえない悲しい現実と正面から向きあったのが『クラナド』という作品である。

⇒『クラナド』を読む 第三夜 - ワザリング・ハイツ -annex-