第二夜において、並立する世界が互いのifでありつづけると書いた。どちらが本物というわけでもない、オリジナルのないコピーである。ここにもやはりボードリヤールのシミュラークルの概念を導入することができる。ドゥルーズの仮面の比喩をひくまでもなく、ふたつの世界はどちらも等しく隠された世界であり、ふたつ以外にもそのような世界はたくさんあると想定できよう。そのどれもが本物であると言わざるをえない状況が『クラナド』のなかにも生みだされていた。かつて東浩紀が『動物化するポストモダン』で述べた通り、この分野でポストモダンの顕著な表徴が随所に見てとれるのは興味深い。
ドゥルーズの「リゾーム」においてうちだされたように、あるものはまた別のものの一部にもなりうる。近いところから見ればひとつの点にしか見えなくても、離れてみればその点を含む多数の点の集合が線を成すと気づくことがあるように、視点を変えることでまったく別の要素どうしが有機的に手を結ぶ。この考え方自体には私はとても共感する。『クラナド』の想いの奇蹟に立ち返るとき、思いだすのはそのことである。交わるはずのないふたつの世界の想いが交錯する可能性はここにも示唆されていると思うのだ。
現実とは、実体のない、再構成不可能な物語のことである。そのうちでは、朋也の絶望の物語は幸福な物語のかけらであり、逆もまた真であり、どちらが“本物”であるとも言いがたい。しかしまぎれもなくそれは朋也の人生を構成する諸要素として認められるものだろう。その曖昧で不安定な現実の様相は私たちに自身の日常を改めて見直す必要性を強く感じさせる。『クラナド』が、明快な解答・謎解きを必要としない物語だとあらかじめ断ったのには、そういった理由があった。日本の文化的伝統に則り、光を描くために陰を描く趣向で、真摯に現実を書き綴ったところに私は強く惹かれたのだと思う。
こうした物語を通じて私たちは、ふとなにかを手にしたときに、それにまつわる様々なifを、ある種の現実感を伴って経験することができるようになるだろう。そして自分の手にしたものもまたひとつの可能性にすぎないのだと知り、その可能性を自分にとっての本物として大切にすることを学ぶ。それは決して否定的なことばかりでないと私は思うのだが、みなさんはどうだろうか。
≪参照≫
ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』(1981年)
ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『千のプラトー 資本主義と分裂症』(1980年)