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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

博士後期課程まで行った文学好きが勧める本の選び方 前夜(初級編)

記事の更新を意気込んではじめたはいいものの、日本語と英語で作品の読みを展開するだけでは身がもたないことを早くも痛感し、雑文も書くことを決定。更新頻度をあげる狙いもあるが、英語に“翻訳”することの手間とつまらなさに気づいてしまった。もともと翻訳(和訳のほうも含め)は苦手だし好きではないので。意味はあるけれど、だからこそ学術に携わるとき以外ではやりたくない。

それでも相当数の英語記事はサイトにそのままあるのでどうせだから消去せず置いておく。今後は英語翻訳記事がなくなるけれど英語でオリジナルの記事を書いたり日本語記事のパラフレーズを載せることはあると思う。いくらネット社会とはいえ、たとえば美少女ゲームの考察記事を翻訳してまとめた英語サイトなんて見たことないし、そういうものを英語で提供していけばある程度は需要があるのではないかと思っている。

雑文ではまったく体裁を整えず書き散らすつもりなので、居酒屋で文学好きのおっさんに絡まれたと思って読み流していってほしい。座興を挟んだが、例によって例のごとく前夜と題し、ここからは書籍の選び方というか、読書全般に関する話で記事を構成したいと思う。今夜はあくまで初級編。本の探し方をある程度心得ているひとには必要ないかもしれないけれど、せっかくだから寄っていってね。

前置きが長くなりましたが、それでははじめます。

 

 ●読む本はなんでもいい

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最初から身も蓋もない見出しですがこれは本当。

私は文学だけでなく漫画も心理学の専門書も哲学書もエロゲも応用物理学の本もベストセラー小説もネットの考察記事も同じように考えて読む。「お薦めの本を教えてください」と「文学を研究するってなにそれ」は仕事上最も訊かれることの多い質問だが、後者はとりあえずいまは措いておくとして、どんな本を読んだらいいかわからないひとが他人からそれを訊くほど無駄なことはないと私は思う。

というか、私たらしてみれば、それをしている時点で読書体験の楽しみの半分を失っている。本屋の平積みや背表紙を見ながら、あるいはamazonから薦められたら、気になったものをとりあえず買ってしまうというのもひとつ。私は大学生の頃は大きな休みの前に十冊以上まとめて買っていた(もちろん全部は読まないし読めない)。

読書は偶然がすべて。適当に選んだ本の内容が暗に結びついたり連関して主題が深く掘り下げられるといった体験こそが醍醐味である。大切なのは、まずは読み散らかしてやろう、という心意気である。つまらなかったり読むのに飽きたのなら放置すればよい。義務づけられた読書ほどつまらないものはない。また、お薦めの本をひとに尋ねるのは、リサーチにリサーチを重ねたあと、さらにはその分野の本を濫読あとが適切なのだけれど、そのあたりの話は今後また機会があればお話しする。

 

●なにを読むかではなくどう読むか

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いわゆる“難しくてつまらない”と言われる本を難しくてつまらないと感じる理由は、ただ読み方がわかっていないという一点に尽きるので、たいていの場合はその本がつまらないわけではない。あるいは、難しい本を読むために必要な手続きをきちんと踏まず、いきなり読もうとするから起きる事故である。読み散らかすという作業は、こうした読書の土台、もしくはある分野の本を深く読むための常識づくりといった点からも重要なのだと言っておく。

先日仕事で読んだ英文にこんなものがあった。「『これを読んだ』とか『あれを読んだ』と言うひとのうち、読んだものについて聞くに値する意見を言える人間はおそらくひとりもいないのではないか(英文は割愛)。」

まったくその通りだと思う。

普通は一年に百冊とか二百冊とか読めるものではないし、いったいどんな読み方をしたらそんなに読めるのかとむしろ興味が沸くけれど、勘違いしているひとも多いので言っておくと、たとえば大量にものを読む必要がある場合――ですらよくないと思うが――を除いて、そんな読み方はすべきではないし、そもそもなんの意味もないし、とにかくもったいない(私はいまでもそうせざるを得ない時期がたまにあるので大変苦痛である)。速さではなく深さを気にかけてほしい。だからこそなにを読むかも本当はあまり重要ではない。

また、どう読むか、についてだが、まずは鉛筆を手にもって、気になったところやうっかりひとの前で引用したくなるような言葉に線や印を入れまくることである。

批評や哲学ものを読む場合、私は議論や専門用語の内容を整理しておくために自分用のメモを余白に残すこともある。「ここすごくいい」とか「その通りだ」とかのコメントを残しておくこともわりに多く、あとで読み返したり、あんな感じのことがこの本のどこかに書いてあったはず、という場合に拾い読みしやすくなるのでかなり役立つ。

これは私の先生の言だが、はじめて読んだときに思ったことや感じたことがよみがえるような書き込みがいい、とのこと。この言葉にも線をひいておきたいくらいである。

もうひとつは、本に書かれているあらゆることを自分の経験に映して捉えなおしてみることである。本はつまらないから読まない、というひとの多くは、これをほとんどやっていない。

いや、実際は知らず知らずのうちにやっている。本は読まないのにテレビドラマや映画をよく見るひとというのは、視覚的な補助を受けて同じ作業をやっているわけだけれど、そのことに自覚的であるひとなら、本だって同じように読むことだろう。

読書を通してやるべきことは、「抽象→具体的経験」と「具体的経験→抽象」を往ったり来たりすることである。これについては次回に私の恥ずかしい過去をさらしながら詳しく説明する。たぶん。

 

●分野を横断することの重要性

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この場合の分野には媒体を含めてもよい。電子書籍であろうが雑誌や漫画であろうがビジュアル・ノベルであろうがなんでもよい。ネットに転がしてある記事ひとつとっても、読むという体験は変わらないし、そこからどれだけのものを得られるかは読み手の技量にかかっている。なかには不当な批判をばらまいただけの本当にごみくずみたいなものもあるが、それでさえごみくずとして話の種にできれば、利用価値や議論の価値があるというものだ。どう読むかが重要なのはまさにそれゆえである。

裏を返せば、どんなにがんばっても自分の経験に映して捉えられないものこそが、読む価値のないものだということか。そういうものもまあ稀にある。いずれにせよ、分野や媒体で選んだり斥けたりするのはかなりもったいない。

文系理系の話で言えば「文学者は一生作者の気持ちでも考えてろ」であったり「答えがひとつに決まっている数学なんてつまらない」などが定番である。いまの文学者で作者の気持ちを慮っているひとなんて希少価値があって大いに結構だし、数学者の多くははじきだせる答えが多すぎて頭を抱えているのだから、むしろそんな未来が来てほしいものである。この期に及んでそのような時代遅れの議論をもちだすなど、それこそ教養の程度が知れるというものだ。

話がやや脱線したが、デイヴィッド・ボームが量子論の議論の枢軸に言語学の話をもってきたように、あるいはヴィトゲンシュタインやW・V・O・クワインが哲学の命題を数式で表したように、むしろ私たちは分野を跨がなければどんな議論も成立しないことを知るべきだし、なににも増してそうでなければ面白くない。

ここにさらに年代を付け加えてもいい。私はよく、アニソンを聴きながら十八世紀後期ロマン派の詩を読んだりするわけだが、食べあわせが悪く胃が荒れそうな一方で、詞の内容と小説の内容が響きあってはっとすることもある。そういう小さな驚きこそが読書体験を形作る大事な条件なのではないだろうか。

 

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いろいろと偉そうに書いてきたが、私自身、本なんて読まなくても生きていけると思っているし、読書は不可欠なものでもなんでもないと思っているが、読むならせめてもっと時間をかけるべきだとあえて繰り言のように言いたい。

読むという経験は考えるという行為に直結するものなので、いかにひとが普段なにも考えずに生きているかが“読書の量”を通じて露見するという、皮肉な事態すら起きている。

読書はとにかく量より質。自分の骨身にならなければ、あるいはできなければ、その本を読むことに意味はない。量だけ読んで全部身体の外に流してしまうくらいなら、同じ本を何度も読み返し、あれこれ考えてはみたが結局よくわからなかった、と棚に戻すほうが時間を有効活用していると言えよう。