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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

博士後期課程まで行った文学好きが勧める本の読み方 後夜

文学(Literature) 文学(Literature)-本 雑記(Essay) 雑記(Essay)-本

前夜から微妙にタイトルが変わっていますがそこはご愛嬌。読む本の探し方なんてものは本当はなく、手にとって読みたいと思ったら、それはもう読む本を見つけたということ。そのくり返しが習慣化したあたりで読むのがこの記事。誰もおまえに頼んでねえと言われそうな読みの講釈を進めていきます。

 

●「抽象→具体的経験」と「具体的経験→抽象」の思考手順

どちらが先かと言われると、同時発生的の抱きあわせ、とフッサールのようなことを言いたくなる。どちらかができなければどちらもできない。でも強いてどちらが大切かといえば、後者のほうではないかと思う。なぜなら、そもそもひき合いに出す経験の量が乏しければ、必然的にとりだせる抽象も少なくなってしまうからである。まずはリアルでいろんな経験をしておきましょう、ということ。いや、別にネット上でもいいと思うけれど。

読書というのは関数みたいなものなので、得られるものはひとそれぞれ、あるいは同じひとの読書体験でも日によってちがったり、歳によってちがったりと、スロットに入れるパラメーターを変えればドロップアイテムも大きく変わる。まずはそれを楽しむことである。そのなかで、いつ読んでもある同じ考えが浮かんでくるのだとしたら、それこそがその本から得られるひとつの抽象だと言える。たとえば『ノルウェイの森』を読むとビートルズを聴きながら市ヶ谷あたりの土手を流したくなるとか。しかし村上春樹の名前を出すとどうしてこんなにも背中がむずかゆくなるのだろう。恥ずかしい。でも恥ずかしい過去をさらして書くと以前に書いたので誰得の恥ずかしい私でこのまま書くことにする。

その頃の私はなにかを失う、あるいは知らぬ間に失ってしまったという深海誠さんのようなテーマの下に生きていたので、それは『ノルウェイの森』の主題と見事に合致していた。二十歳前後という作中人物たちの年齢も当時の私の年齢と一致しており、そこでとてつもない共振が起こってしまった。私が実際になにを失っていたかについては省略するが、この“喪失”のモチーフはいま思い返してみても実はかなり奥深いものであり(本当の意味でそのことに気づくのは八年九年経ったあとなのだが、それについては後述する)、このキーワードを使ってあらゆる場所で検索をかけるとおびただしい数のハイパーリンクが自分の周囲にはりめぐらされていることに気がついた。

先に述べたとるに足らないイメージですら思考手順をきちんと踏むことで論理の体裁を繕うことは可能である。まずは作品内の時代について考えると、アメリカにおいてはロスト・ジェネレーションのちょうどあと、ヒッピー・カルチャーが勃興するベトナム戦争の時期にぶつかっており、失われたものを回復し、さらにまた失うという負の循環に陥る生のアメリカの姿が透けて見えるようである。さらにビートルズの「ノルウェイの森」という歌の詞自体も、朝起きたら君はいなくなっていた、という知らぬ間の喪失を歌いあげたものときている。そしてそこに、大日本帝国解体後はじめて思想的統一を遂げかけた共産主義的理想の実践、すなわち学園闘争の一件までもが絡みついてくる。この喪失と回復の連続、秩序の崩壊はポストモダンの主題に結びつくが、そこまで足を延ばすと収集がつかなくなるのでここではやめておく。

お気づきのこととは思うが、具体的経験というのは自分自身の経験だけを指すものとは限らず、自分の眼で見た、あるいは聞き知った経験をも含められるだろう。むしろその両者を結びつけることができたとき、本を読む“私”の思考深度はとてつもなく深くなる。むしろこの体験ができなければ本を読む意味がない。

蛇足ではあるが、この実践に自覚的でない大人が、「国語の成績をあげるためには本を読むといい」などとこぼしてしまうのだろう。教員ですらそんな人間がいまだにいるのでもし身近にいたら声をかけられても絶対についていってはいけない。

 

●主題の拡張

以上のような体験をして恍惚となってしまえば、もうそこで終わってもいいのだけれど、おいしいコーヒー豆を買えばフィルターなどにもこだわりたくなるのと同じく、ついついなにか別の種とくっつけたくなることがある。そうなってくると本の虫への第一歩を踏みだしたと言えよう。これはとても熱量が必要な作業なので意識的にやるとつらくなる。それを本格的にやるのが文系大学院の研究でもあるのだけれど、それはまた別の話。ここから先は本当の本好きが実はみんな頭のなかでやっていることの話。

先ほど触れかけた、八年九年後の私の読書体験と二十歳の私の読書体験が結びついた話に戻る。そのときの私は和歌に嵌まっており(それ以来『古今和歌集』は私のバイブルである)、偶然友人から紹介された無印デザイナーの深澤直人著『デザインの輪郭』という本の一節と和歌が結びついた。日本の伝統的美学と結びついた、と言ってもよいだろう。それは言うなれば、語らないで伝えること、現代的に言えば「空気を読む」ことである。少し引用してみる。

「俳句でいわれたのは、いいたいことをいうのではなくて、いわないことをいうために十七文字を使うんだってこと」

対談なので、これが深澤さんの言葉でないのはさておき、別のところで煮たような似たような捉え方をしているので考えの本質は同じだと思ってよかろう。和歌は日本の文学の源流であるが、そこで日本人が最初にやったこと、それが「空気を読む」ことなのである。だからこれはなにも新しいものではなく年号が三桁の頃からあった日本人の慣習的表現形式なのだ。村上春樹の喪失の主題がどうしてここに接続するのかといえば、それは彼が死というものを一行や二行であっさりと片づけてしまうあたりが鍵となる。その代わりに村上はパスタの作り方やその他さして必要のない細部をやたら書きこむのである。重要な主題には触れず、その周囲を書くことで、書いていない主題を自然と浮かびあがらせる、これはまさに伝統的な書き方なのだ。

死についてはどんな書き方をしてもその深刻さを本当の意味で捉えきることはできない、だからこそあえて直接は書かずにそんな書き方をする。死をあっさり書いて済ます傾向は、おそらくカート・ヴォネガットリチャード・ブローティガンあたりのビートジェネレーションに源流があると思われるし、村上もこのあたりの作家はよく読んでいる。が、それはあまり重要ではないし、源流がどこにあるのかもここでは特に知る必要はない。私たちにとって大切なのは、ややスノッブな小説からひとつ材料をとりだし、それを作中の舞台装置を通じてふくらませ、他のテクストや主題と有機的に結びつけるという経験ができることにある。私の高校ではそのことを現代文の授業できちんと教えてくれたからよかったものの、ほかの学校ではどうもそうはいかないらしく、本の読み方がわからない大人はいまでも増加傾向にあるようだ。アップル製品じゃないんだから、いや、アップル製品もそうだけれど、わからないひとにはわからないのだから取説はちゃんと書こう、という話でもある。ということでひとつ書かせていただいた。