ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『ソードアート・オンライン』を読む(感想・レビュー)

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アニメ放送時に作者が実況という名の自作解説をやる(しかもご丁寧にすべての場面にコメントをつける)という前代未聞の自演があって少しひいたのもいまはいい思い出。エイズの話題が盛りこまれた時点で作者の“繫がりたい”という強すぎる意識は感じたけれど本人に解説までされてはかなわない。もう少し読者を信頼してゆだねればいいものを。あなたの読者はそれだけのリテラシーをそなえていますよと言いたい。

※あとから調べたところ、これは一回きりのものではなく毎回ツイッターでやっていたらしく、正直もっとひいた。よい子は真似してはいけないと思う。

というわけで『SAO』をとりあげる。仮想現実の話自体は珍しくもないが、以前も何度か触れたように、大事なのは主題の意外性ではなく演出(見せ方・語り方)や描写のほうにある。本作はこれが抜群にうまい。ネット社会・仮想世界の倫理について子供でも語ることのできる場を整えたという意味でこうした作品の功績は大きい。既存のものであればたとえば『serial experiments lain』なども挙げられるが、あれは頭のねじどころか頭ごと吹きとんだ作品だったので、文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞をとっていようが一般的になるはずもなく。

前戯は以上。本題に入ります。

 

●仮想身体という難題

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当然出てくる死の主題より触れておきたいのがかかる身体の扱いについてである。「SAO」というゲームをはじめる際、プレイヤーは自分の身体を触ることでナーヴギアに身体の特徴を認識させ、ゲームのなかに現実とほぼ同じ自身の身体を再現することが可能となる。プレイヤーはこの仮想身体を動かしながらゲームのなかで戦う。つまりはゾンデのようなものを操りゲームを楽しむのが「SAO」ということなのだが、この仕組みはかなり複雑な問題を孕む。

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ゾンデは身体の延長であり、そこから得た感覚を己の感覚とする、身体から意識への伝達手順をとるわけだが、仮想現実ではそもそも身体も仮想であって、物質的に存在するわけではない。すべてを司るものはあくまで脳・意識であり、仮想身体でゲーム内のなにかに触れたとしても、現実に存在する実際の身体はなににも触れてはおらず、ただ横たわっているだけにすぎない。つまりここでは“身体が物に触れた”という信号が脳に流れているだけで、直接身体を介さない身体活動が成り立っていることになってしまう。ナーヴギアやアミュスフィアというフルダイブ環境をつくりだすハードウェアはすべて脳の活動を制御することで仮想現実を可能なものとしている。言い方を変えればこれは人間活動における身体性を完全に否定した技術なのである。

にもかかわらず『SAO』には身体性が強くうちだされている感がある。ゲーム内でひどい衝撃を受ければそれは現実の身体にも影響を及ぼすと言及されており、また「SAO」ではゲーム内の死がそのまま現実での死となるなど、仮想現実から現実身体への干渉が随所で示唆されている。痛みは感じないけれど、仮想身体も同じようにあたたかさをもち、現実の肉体と同じように扱う様子も描かれた。身体不在のコミュニケーションを描くことでむしろ身体を前景化するという、谷崎を挙げるまでもなく、陰を描けば陽が浮きあがる、これは和歌から受けついだ日本古来の伝統的手法にほかならない。

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仮想身体を現実身体とどう区別すべきかまでは私にはわからない。市川浩にこのアニメを見せたらきっとなにか面白いことを言ってくれたにちがいない。しかしながら、身も蓋もない話をしておくと、「SAO」というゲームにログインしている限り、厄介なことにプレイヤーはゲームマスターの指示に抗うことができない。各プレイヤーの意識は完全にゲームマスター茅場晶彦の制御下にあるため、彼のひとふりで、全プレイヤーが命を落とすこともありうる状況だった(あくまで状況の話。茅場がそんなことをしないというのはまた別の話)。これは現実において手足を縛って好き放題、のような状況とはわけがちがう。「アルヴヘイム・オンライン」で実際に描かれたように、そこでは意識ですらゲームマスターの意のままであり、もはや身体が誰に属するものなのか断言できない異常な状況がつくりだされている。ここに当人の身体の延長である仮想身体という考え方を導入するのが適切かどうかと問われれば、答えは眼に見えている。身体の他有化という問題は、ポーリーヌ・レアージュの『O嬢の物語』あたりから議論されてきた主題でもあり、かなり根が深いので、今後改めてとりあげてみたい問題でもある。

 

 ●付記

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1upなしのゲーム世界でいかに死が描かれているかについては面倒なので考えるのをやめた。いつか考えるかもしれないし考えないかもしれない。死の一回性については自分が興味のもてる議論を提示できそうにないのでいまは触れずにおく。ただ、私自身もファミコン創世記からのゲーム時代に生きる人間なので、無限1upのできない“人生という無理ゲー”で狂喜乱舞する立場から、生(せい)の手触りを捉えなおすべきだと思うことはある。