読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『CARNIVAL』を読む(感想・レビュー)

f:id:SengChang:20160515175358p:plain

 ※冗長な前置きを飛ばしたいひとはふたつめの●印までスクロールどうぞ。

精神病が科学的にリアリズムで記述されはじめたのは19世紀頃と思われ、イギリスでは道徳的狂気(moral insanity)と狂気(insanity)が区別されるなど、精神病患者に対する健常者の見方がようやく“悪魔”などの迷信からいわゆる“病気”へと移りはじめた。当時の文学についての文献から気まぐれに一節ひいてみると次のようなものがある。

 

In other novels by Charlotte and Emily struggles with madness take place in individuals which represent a characteristically nineteenth-century rewriting of the tradition of psychomachia, battle between good and evil, virtue and vice, reason and passion, for possession of the mind or soul of a human being. (Patricia Ingham. The Brontës.)

 

翻訳は面倒だしきらいなので全文は訳さない。大事な点をとりだすと、psychomachiaとは魂の葛藤のことであり、ブロンテ姉妹は小説のなかで狂気というものを人間の魂の葛藤として描いたのだという。そしてその葛藤は、善と悪や、理性と情熱などに板挟みにされた人間のものであったという点も注目に値する。自己確立の過程に統合失調症のような精神病が関わるとの捉え方はいまも昔も変わらないらしい。

※このあたりの裏づけについてはサリー・シャトルワース(Sally Shuttleworth)や上記のパトリシア・インガム(Patricia Ingham)などの文献を参照。どちらもブロンテアンなのは当の私がそうだから。

現代において、アメリカを中心に統合失調症が積極的に作品へとりいれられたのち、日本では特にサブカルチャーの分野で多くこの主題が扱われるようになったのは興味深い。この点に関する東浩紀の分析は記憶に新しいが、確かにノベル・ゲーム一般のマルチエンディングなどは――時にルートによって人物造形が変化していてプレイヤーからネタにされることもあるように(『かにしの』)――「主人公=プレイヤー」の自己分裂を前提に置いている。こういった特徴については言を俟たないだろうからこのくらいの言及にとどめておく。

 

●『CARNIVAL』のリアル

f:id:SengChang:20160515175729p:plain

『CARNIVAL』では木村学が武という別の人格を宿す。いわゆる多重人格である。学が身辺の問題と折りあいをつけながら日常を営むためには武という人格が必要だった。やがて訪れる人格の統合は“すべてを受けいれる”という決意を表すものでもあり、そこに至る過程が本作の主幹である。学を見ていれば精神病が特別なものでないことがよくわかると思う。苦しい現実に耐えることで生まれた負の力を、ひとはたとえば他人にあたり散らすことで発散したり、なにかに没頭したり、暴飲暴食でごまかしたりするが、それと同じく学はもうひとつの人格をつくりだすことで放出しようとしたにすぎない。「真理とはそれがなければある種の生物が生きられないような誤謬のことである」というニーチェの言葉をひき、精神病者の妄想を彼らの「真理」と捉えた精神病理学木村敏が言いたかったのは、まさにそういうことなのだろう。

長い前置きを据えていつも以上に熱が入っているのは、なにを隠そう、私の初エロゲが『CARNIVAL』だからである。作者は瀬戸口廉也なのでいっさいの救いがなく、人物の現実はひたすら転落の一途をたどり、続篇小説の結末も考慮すれば、学と理紗の関係でさえふたりにはどんな救いももたらさなかった。そこに本作のリアルがある。そしてはじめに言っておきたいのだが、この物語で一番狂っているのはどう考えても理紗である。

それでは本題へ。

 

●誰に許されるべきなのか

f:id:SengChang:20160515175939p:plain

キリスト教に対する泉の言葉通り、道徳のような“掟”に従っていれば許される、というのが世の中の不文律であり、村社会である日本においてはその締めつけがいまだ根強い。一度世の中の道徳から外れてしまえば、それは当人を圧しつぶす一生消えない傷跡となり、社会において立場を回復するのは難しくなってしまう。父親にレイプされ続ける理紗が「自分は許されるべきではない」と感じるのは、そのことを彼女自身よく自覚しているからであった。そんな世の中に許されない存在である理紗を唯一認めてくれたのが学であり、彼女が学を特別な人間と見る理由もそこにある。執拗なまでの学信奉はまさに狂気の沙汰と言えるが、否定しがたい世の正しさから外れてしまった彼女にとって、自分を自分として保つために学が武という人格を必要としたように、従うべき正しさや強さを学に求めたというのは素直に理解できる。

f:id:SengChang:20160515175413p:plain

つめたいオゾン』のなかで瀬戸口が「このあまりにも公平な現実世界を、少し歪めて欲しい」と書いたその公平さが、理紗のような人間が救われることを妨げているのは言うまでもない。それは学についても同様で、母親を殺すに至ったその悲劇的背景は、殺人という罪の前ではいっさい顧みられることはなく、決して覆ることのない世の法が学の未来を容赦なく奪う。そしてそんな世の“正しさ”を彼らは否定することができない。

 

一体なにが始まりだったんでしょう。

志村先輩や、三沢先輩がしていたことは、確かに良くないと思います。でも、ここまでされるほど酷い罪ではないとも思います。

じゃあ、武君が悪かったのかとか、学君が悪かったのかというと、私には、そうは思えないんです。

学君は、そうでなくとも、昔から大変なことがあって、きっといつも大変な思いに耐えていたんだと思います。

その学君を守るために、武君がしたことは、確かにやりすぎだとは思いますけれど、武君は武君で、学君を母親から守ろうとしても、学君自身に否定され、そして、ずっと閉じこめられて、他にもやり方はあったのかもしれないけれど、きっと、選ぶことは出来なかったんです。

じゃあ、学君のお母さんが悪かったのかというと、お母さんもきっと、辛い目にあっていたんだろうし。

どこまでさかのぼっても、みんな辛そうで、しかたなくそうしたように思えます。

世の中に、本当に悪い人なんかいるのでしょうか。

 

結局のところ、世の中の正しさをものさしとしなければ、この循環からは永久に逃れられないと知り、理紗は自分が罪人であることを深く心に刻みつける。だからこそ理紗と学は、世の中に救いを求めるのではなく、ただ自分のしたことを背負って生きる道を選択した。苦しい選択を決意できたのは互いの存在ゆえというわけである。

f:id:SengChang:20160515175407p:plain

こうした選択に至る過程が『CARNIVAL』の本篇ということになり、ひとりきりではできなかった選択を、寄りそう相手ができたからこそ果断に選んで進もうとする様子に胸をうたれる。相手に寄りかかるのではなく、互いの存在を認めあいながら、自分の重荷は自分で背負い、まずは生きてみようという姿勢である。しかし当然社会はそんなふたりをあたたかく包みこむような懐をもってはいない。この選択が無為に帰することは眼に見えている。それが『CARNIVAL』のもつリアルではないだろうか。

本篇で描かれるのはあくまで自己確立の物語であり、社会とどう折りあいをつけるのかという物語ではない。そして学の人格は理紗と生きるためだけに統合されたのではなかったか。彼らは互いを自身の実存的根拠として認めあうことで、世の正しさを埒外にし、代わりに自分というものを定めるだけの物語をうちだした。リアリズムに立脚したゲームでここまで救いがない選択をする作中人物たちというのも大変珍しい。

 

●“幸福”というがらくた

f:id:SengChang:20160515175355p:plain

先に述べたように、精神の病は、私たちが苦しいときにそれを乗りこえる術として現実逃避することとなんのちがいもない。それと同様、いわゆる道徳を盲目的に信奉する世間一般の人々と、学を慕い彼を信じつづける狂った理紗は、皮肉なことに、やはりなんのちがいもないと言わざるをえない。心の寄りどころを求める行動やその動機は同じであり、選んだ選択肢が普通か否かで、健常か異常かが裁かれるにすぎない。

しかしだからこそ彼らの自己確立の葛藤はひとごとではない心地がする。学が武を生みだしてまで避けようとしたもの、あるいは武をうち消してまで信じようとしたものは、幸福の幻影のようなものである。

 

「えー、幸福はガラクタなの?」

「気に入らなかったら、違うのもある」

「なに」

「ほら、マンガとかでさあ、馬の頭に釣り竿つけて、先っぽにニンジンつるすでしょ。馬はそれを追いかけてずっと走るって」

「うん」

「あのニンジン」

 

母親との楽しかった時間や母親のいいところを自身にすりこんで虐待の現実から眼をそらす学は幸福の幻影にすがりついている。本当はそんなもの微塵も信じていない、彼の負の部分を武という人格が請け負っていた。しかし理紗と生きることを選んだ学は武と自分を縫合してもう一度その幻影を呼び戻す。

 

「ねえ、ニンジンを追いかけちゃだめかな?」

「あれは、どうやっても届かない仕組みになってるんだよ」

「うん、わかってる。いいんだ、なんか、一生懸命走りたいの。後悔したくない」

「それなら、しかたないね」

  

学が受けいれたのは、苦しくても自分たちなりの幸福を探す現実などではなく、幸福には決して手が届かないという現実、それでもその幸福の幻影をふたりで追いかけて生きるという決意である。この明らかに空転し転落しつづける物語のなかで、ふたりが確かな自己を確立してゆくというのは、世の中に対するこれでもかというほどの皮肉であろう。正しすぎる道徳ではどうしようもなかった彼らの自己は、異常と蔑まれるゆがんだ価値観に育まれて、見事に統合されてゆく。そこには自分を自分の倫理で裁かざるをえないというさびしい現実がある。

 

もう全部駄目になった。でも、僕は生き残るよ? 理紗。僕は生き残るんだ。

僕は母親殺しの罪で一生苦しみつづける。ただ、ちょっとの間だけ、猶予を持つ。今は無理だ。気が狂う。狂ったらラクになっちゃうだろう? それは駄目だよね。

f:id:SengChang:20160515175727p:plain

 

●付記

理紗もそうだが、多重人格の学のような“徹底的に狂った”人間を描くことで、世間の正しさがもつ狂気というものを本作は暗になぞっている。健常者も異常者も選択の動機は同じなのだから、学たちが狂っていると思うのなら、自分たちも狂っているということになろう。むしろそれに自覚的でない健常者のもつ狂気のほうがよほど他者を追いこむ恐ろしさをもっているのではないか。『CARNIVAL』は異常者の側から健常者の“異常”を暴いていくようなところがあり、この点もまた考えてみるとおそろしいことではある。

やや長くなったが、『CARNIVAL』の提示した問題は涙が出るほど救いがたく切実なもので、できれば知らぬふりで通りすぎたいものばかりであり、それらを笑って否定できるひとこそが、きっとうまく幸福の幻影を自分のものにできているひとなのだろうと思う。しかし人間はなにも幸福になるためだけに生きているのではないだろう。学と理紗が互いのためにニンジンを追いかけるのがそのなによりの証拠である。

⇒『CARNIVAL』(小説版)を読む(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

f:id:SengChang:20160515175402p:plain