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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『涼宮ハルヒの消失』を読む(感想・レビュー)

アニメ(anime) アニメ(anime)-涼宮ハルヒの消失 感想・考察(レビュー) 感想・考察(レビュー)-涼宮ハルヒの消失

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ハルヒシリーズについていまさらなにも言うことがないというのは方便でもあり本音でもあり。ハルヒで入門すれば物語文法のAtoZはほぼほぼ学べる。しかも基礎文法の応用例まで完備した実に優秀な教科書であるから、ハルヒからアニメ・ラノベに没入したという人間が多いのもうなずける。それにしても、いわゆる微妙な立ち位置の主要キャラクターというものが存在せず、全員例外なく属性に倣った範型とも言えるキャラクターばかりで、現在から見るとまるで二次元初心者のために誰かがサンプルとしてつくったように思えるほどである。

そんなシリーズのなかの『涼宮ハルヒの消失』は何度観てもその完成度の高さに驚かされる。あの長さでいっさいの冗長さを感じさせない演出は見事。おかしくなってしまった世界でキョンが谷口からハルヒのことを耳にするまで劇中で一度も音楽が流れない演出には驚かされた(OP後本篇に入ってからの話)。

ハルヒシリーズのポスト構造主義的な読みはいまさらさして珍しくもないが、その点を踏まえたうえで、気になった点をいくつか思いつくままに挙げてみたいと思う。

 

●非現実=>現実/非現実=>非現実

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東浩紀が『ゲーム的リアリズムの誕生』で述べた「物語内の虚構と物語外の現実を繫げる」試みは美少女ゲームだけでなくもはや二次元コンテンツ全般における一般的な見方となった。『消失』において、宇宙人も未来人も超能力者もいない現実ではなく、ハルヒを中心とした全宇宙が“狂っている”元の世界をキョンが望んだのは、そのまま私たちが現実ではなく二次元コンテンツの世界を選びとる姿勢と重ねあわされる。

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涼宮ハルヒの憂鬱』には、ハルヒとともに閉鎖空間に閉じこめられたキョンが、そのままそこにとどまることを望むハルヒを現実に連れ戻す挿話があり、これは『消失』の物語と興味深い対を成す。宇宙人と未来人と超能力者のいるキョンの日常を“現実”と捉える『憂鬱』のシリーズとは異なり、『消失』ではその世界こそが非日常であると捉えなおされて おり、ハルヒがなんの影響力ももたない安定した世界から彼女が神様である非日常に戻りたいのか?とキョンは自分自身から問いかけられる。『憂鬱』の挿話は「閉鎖空間(非現実)」=>「異常な日常(現実)」への回帰だったのに対し、『消失』では「改変された世界(非現実)」=>「異常な日常(非現実)」への回帰となっており、「異常な日常」が再定義されていることに気づく。

このねじれは考えてみると面白い話で、『消失』はこの点をうまく利用し、別世界から元の世界に戻るというお約束の展開を、もう一歩前に進めた新しい理解を提案している。その鍵は決して脱出できない非現実の入れ子構造にある。

 

●非現実からの脱出

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『消失』における“非現実からの脱出”のねじれた構造とはどんなものか。ひとつは、前述の通り、脱出先が非現実であることだ。『CROSS†CHANNEL』などにおいても、まずは元の世界というものが存在し、そこへ戻ることが物語の筋となるのが普通である。これを根底から覆し、『消失』においてキョンが戻る先は超能力や時間移動が可能である非現実世界であり、それが現実として受けいれられている狂った世界であった。

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ここには奇妙な循環構造が見出だせる。非現実世界からの脱出先が別の非現実世界となる『消失』では、いわゆる世界全体が脱出不可能な非現実空間となっており、どの世界からどの世界へ移動しようとも、それはまた別の非現実空間に閉じこめられるにすぎず、あくまで“正常な”現実世界を否定する世界構造となっている。ここで冒頭の議論と接続するのだが、ここには徹底した現実否定と、二次元的な非現実世界で私たちの経験する生とを、比喩的に読むことができよう。このように『消失』は、どこまでいっても非現実的な世界である日常を自分の“現実”として受けいれるというキョンの決意の物語であり、それを別の文脈で追体験する私たち自身の物語でもある。

 

●付記

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よくもまあこんな複雑な物語を思いついたものである。ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』や田中康夫の『なんとなく、クリスタル』のように(というと誰かに怒られそうだが)、随所に埋めこまれた記号から別の物語を次々と参照するような、読み進めるごとに重層的になる仕掛けがハルヒシリーズにも隠されている。

そのほかこのシリーズで感心したことと言えば「こういうのが観たかったんだよ」と私たちが思う“定番”を次々とうち立てていったことだろうか。学祭のライブシーンなんか何度焼きなおしされたかわからないいまや鮮度切れのネタである。想像力の枯渇した作家が思わず真似したくなる気持ちもまあわからなくはない。

『消失』にはまた長門の“心”の問題もあって、これについてなにか言及したい気持ちもあるのだが、いまはまだうまく言えそうにないのでまたの機会に譲る。“バグは心だ”というキョンの考えにはいたく感動した覚えがある。

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