ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『エルフェンリート』を読む(感想・レビュー)

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いわゆるゼロ年代の想像力が生みだしたハートフルボッコ作品の代表格。三回くらい挫折してやっと完走した頃にはもう私は虫の息。でも見て・読んでよかった。身体のいろんなところが吹きとぶ作品のため軽々しく手を出すべからず。本記事ではそういった場面の画像はないので安心して読み進めてください。基本的にグロ作品は見ないので、たとえば『なるたる』や『ひぐらしのなく頃に』とか近年の『Another』などと比べることができないけれど、きっとほかにやってくれるひとがいるでしょうからそちらに譲ります。

先日完結したばかりの『極黒のブリュンヒルデ』がなんだかかわいそうな感じなので景気づけにレビューといきましょう。岡本倫さん応援していますよ。

今回は珍しくアニメ版と原作版のクロスレビューとなります。

 

●“人型”であるがゆえの倫理

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この主題については『ぼくのたいせつなもの』でも以前とりあげたが、そのほかにも思いつくまま挙げるなら、たとえば『イヴの時間』や『わんことくらそう』、文学ならばメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』などでも同じ主題が提示される。人間の姿をしている、あるいは人間と親しい(犬や猫のように)ということだけが“かわいそう”を生む、人間中心の考え方に対する違和感が、これまで諸々の作品で盛んに主題化されてきた。近い将来、私たちはこの倫理問題と真正面から向きあわねばならなくなると思うが、脳死判定や堕胎を平気で行う現代においては、残念ながら答えはもう眼に見えている。

ディクロニウスは人類を滅ぼす力をもったある意味で“ウイルス”とも言える存在である。そして彼らのベクターウイルスに感染した親が子供をつくると人間ではなくディクロニウスの子供が生まれてきてしまう。彼らはひとに寄生する形で繁殖し、種の存続を懸けて人間を殺すよう、文字通り遺伝子によって指示される。野生の動物は種の繁栄と自らの命を護るためにほかの動物を捕食するが、それは動物として当然のことであり、彼らの行動に悪を見るのは筋違いというものだ。だからこそ、人間社会という“野生”で動物が人間を殺したとしても、ディクロニウスの本能を人間の倫理で裁くことは本来であればできるはずがない。作中でディクロニウスは“新人類”として言及されるが、彼らは私たち“人類”とはちがった動物・種であり、そこに私たちがつくりだした独自の倫理観を適応しようとするのは根本的におかしい。

自分たちのルールをあらゆる動物に適用しようという私たちの利己的な態度は、果たして大きな矛盾を生んでしまう。先に述べた通り、人間と“親しい”ものについて、私たちはひとに対するのと同じような愛情をもって接するが、ひとたび翻って自分たちに不都合な事態が起きると、途端に彼らを単なる動物扱いし、人間の倫理で裁くという矛盾した態度をとろうとする。『エルフェンリート』が暴きだすのはそういった人間の自分本意で矛盾した倫理観なのである。

 

●分裂した自己の主題

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漫画版で中心となり最後までディクロニウス当人たちを撹乱する自己の問題。『CARNIVAL』の学のように生きてゆくためにalter egoをつくりだすのではなく、むしろ普段は表現できないやさしい気持ちを言葉にするため楓は別人格をつくりだす。そして当然そちらの人格のほうが好まれるわけだから、本当の自分を滅却することでみなの幸せを守ろうという、『ソレヨリノ前奏詩』はるかルートのような展開が見えてくる。

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なにが悲しいかと言えば、楓は最後まで自己を統合する理由を見つけられないのである。彼女たちが統合された自己をとり戻したところで、誰も喜ばない、人間にとってなにも喜ばしいことはない――なぜなら最終的に彼女たちは自分が愛するひとまで殺してしまうだけだからである。そうなる前に自分を殺してほしいと楓はコウタに告げる。そして最後の最後まで楓の自己は統合されることがなく、彼の命を救うために身体が溶けるほど力を使い果たした彼女は、コウタに射殺されて短い生涯を終えることとなった。

本当の自分を滅却することが自身だけでなく他者にとってもよいことだというあまりにもさびしい現実である。そしてここまで徹底的に統合された自己が拒絶される物語はあまり類を見ない。コウタでさえ、彼女のすべてを受けいれることを拒み、あくまでそのうちの親しい人格だけを“彼女自身”として認めたにすぎなかった。そのようにして「すべてを受けいれる」という人間関係におけるクリシェをこの物語は最後まで否定してみせた。これは裏を返せば、本質的な自己などどこにもなく、どの仮面もそのひとの真実を物語るものだという、大森荘蔵の議論を思い起こさせる(「真実の百面相」『流れとよどみ』所収)。

日々様々な仮面をつけ換える現代の私たちとしては、それぞれの仮面のうちひとつでも認めてもらえればよいのか、それともすべての仮面を受けいれてもらうよう願うのか、大変難儀な問題提起を突きつけられていると言わざるをえない。

 

●『フランケンシュタイン』との接点

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前述のように、文学においてこの主題をいち早くとりあげたのは『フランケンシュタイン』であると言ってよいだろう。フランケンシュタイン博士によって創造された怪物に対する人間の扱いはまさにディクロニウスに対する扱いそのものである。どんなに慈愛に満ちたあたたかな人間でも、その姿を見た途端に、恐怖に駆られて彼を排除しようとする。愛されたいという思いや、博士の周囲を皆殺しにして自分と同じ思いを味わわせようという怪物の言動は、楓=ルーシーのそれとまさに同じもので、1818年の作品ながら現代の諸作品にまったく見劣りしない。それどころかもっとすぐれているとさえ言える。

人類を滅ぼすと豪語したマイクロソフトのAIや、囲碁の世界王者を負かしたGoogleのAIなどをはじめ、ここのところ人工知能の発達がとり沙汰されているが、いたずらに技術の発展を推進する以前にまずやることがあるだろうとあきれ返るばかりである。事が起こってからでなければ問題に焦点化できない人間の愚かさは『エルフェンリート』でも『フランケンシュタイン』でも同様に描かれている。

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●付記

やや話がそれたきらいもあるが、遠慮なくもう少しそらしてみると、本作での残虐死の多用をどう捉えるかもひとつの問題提起となりうる。『スカイ・クロラ』のように死を無効化することで逆に生の一回性が強調されることもあるように、ベトナム戦争以降のアメリカ人作家たちが試みたような(ヴォネガットの『スローターハウス5』やブローティガンの『西瓜糖の日々』など)、淡白な死の扱いがむしろ生の一回性を深く刻みこむこともある。このあたりはテレビゲームが一般化した私たち世代の永遠の主題であろう。

なにはともあれクリムトの絵を模したOP考えだしたひとが本当の天才。私事で恐縮だが、仕事で美大の教授と話した際に、クリムトの大学から来たオーストリアの美大生とワークショップをやった、という話を聞き、クリムト・・・・・・とひとり感激したことをこのOPでいつも思いだす。

久々にすごい作品と出逢うことができて素直にうれしい。年に一、二回あるかないかのこうした出逢いのために生きていると言っても過言ではない。ある程度まとまった良質のレビューが本作については見つからなかったので、これから誰かが書いてくれるのを心待ちにしている。

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