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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

野矢茂樹『心と他者』を読む

雑記(Essay) 雑記(Essay)-本 精神病理学(Psychopathology) 精神病理学(Psychopathology)-本

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「意識の繭」という『素晴らしき日々』のMADを見たSCA-自がその言葉を気に入って『サクラノ詩』のOP「櫻ノ詩」の歌詞に使った、という流れでよかったと思うが、その「意識の繭」という言葉はもともと野矢茂樹が本作で用いた言葉である。野矢のウィトゲンシュタインに関する著作も読んでいるはずのSCA-自がそのことに気づいているかはわからない。調べていないので。

それとはまったく関係がないのだれど、野矢茂樹の『心と他者』を読んでそのなかのある議論が離人症の症例分析と重なったため紹介することにした。ウィトゲンシュタインアスペクト論を参照しながら野矢は「アスペクト盲」について論議を進めるのだが、個々の対象を別の対象との関係において有機的に位置づけられないアスペクト盲は、離人症の症例をそのまま理論化したようなものである。また、そののちに出てくるアスペクト盲の対概念「意味盲」(のちに「実践盲」と同一視される)は、行動に規則を見出すことができない、ブランケンブルクが『自明性の喪失』で紹介した患者アンネの症例とまったく同一のものである。

 

アスペクト盲について

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このだまし絵を見て最初に「アヒルに見える」ひともいれば「うさぎに見える」ひともいるだろう。この「~に見える」はそのひとの見え方を報告した言表である。言いかえるなら、「このだまし絵は『アヒル』や『うさぎ』といったアスペクトをもっている」となる。ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば、「アスペクトの表現とは、捉え方の表現(したがって扱い方の表現であり、ある技法の表現)なのである」*。

*『心と他者』第四章より引用。孫引きになってしまい申し訳ない。

アスペクト盲とは、対象について以上のような様々な捉え方を展開できない状態を想定した概念である。

彼[アスペクト盲]は単相状態に安住し、けっして複相状態に出会うことがない。その意味で彼はまた、〈他者〉に出会うこともない。(同書第四章)

単相状態、複相状態というのは、端的に言うならば、前者があるひとつの見方しかできないこと、後者が様々な見方のできることを意味する。私たちは通常複相状態にあり、「アヒルに見える。あ、でもこうしたらうさぎに見えるよ」といろいろな観点から物事を捉えることができる。裏返せばそれができない状態を単相状態と呼ぶのである。そしてこのアスペクト盲の状態こそが離人神経症の様態説明となっている。

どういうことかと言えばおおむね次のようなものである。アスペクト盲の人間が先のだまし絵を見て「アヒルだ」と言ったとしよう。そこで私がうさぎに見えるよう絵の向きを変えたとする。するとそのひとは「うさぎだ」と言う。しかし不思議なことにそのひとは「アヒルにもうさぎにも見える」とは決して言うことができない。だまし絵が、視点のとり方――文脈や局面と言ってもよいと思うが――によってアヒルにもうさぎにも見えるものだというのが、実感としてわからない。つまりはだまし絵におけるアヒル的見方とうさぎ的見方を関係づけることができないのである。

次の引用は木村敏の担当した離人症患者の言葉である。

テレビや映画を見ていると、本当に妙なことになる。こまぎれの場面場面はちゃんと見えているのに、全体の筋がまるで全然わからない。場面から場面へぴょんぴょん飛んでしまって、そのつながりというものが全然ない。時間の流れもひどくおかしい。時間がばらばらになってしまって、今、今、今、今、と無茶苦茶に出てくるだけで、なんの規則もまとまりもない。私の自分というのも時間といっしょで、瞬間ごとに違った自分が、なんの規則もなくてんでばらばらに出ては消えてしまうだけで、今の自分と前の自分とのあいだになんのつながりもない。(木村敏『自己・あいだ・時間』Ⅳ章)

離人症の説明をある程度省略するため長く引用してしまったが、つまるところ、私たちが普段意識することさえない自己同一性を、離人症患者はうまく捉えることができないのである。いまの自分と、数秒前の自分と、数時間前の自分が、同じ地平にある連続したものであることが実感としてわからない。連続しているという“関係”をうまく摑むことができないということだ。

数秒前といまの自分が同一であることが実感できないのと同じように、アヒルとうさぎが同じ絵であることを体感できない、すなわち、本来こうした複眼的な視点を統括するための感覚が損なわれているということなのである。木村敏はこれを共通感覚の障害として分析した。

 

●自明性の喪失

アスペクト盲と対になる意味盲(=実践盲)について野矢は日本語的特質を例にとって説明する。たとえば「ゆでたまご」というまとまりを「茹で/卵」とするか「茹でた/孫」とするかによってこのまとまりの意味内容は大きく変化する。後者がおかしいことは誰にでも明らかだが、意味盲にはそれがわからない。先のアスペクト盲の議論と同様“孫を茹でる”という実践と関連づけてこの文意のおかしさを認識することができないのである。

またウィトゲンシュタインの「植物」に関する議論も引用されている。「植物」について理解するとはどういうことを意味するのか。朝顔も桜も植物である。しかしペンは植物ではない。その理由はなにか。私たちはこれに対し無数の理由を挙げることができる。だがその無数の意味を理解しなければ「植物」の判別ができないかといえばそうではない。私たちは積みあげた経験から帰納的に「植物」とはなにかをぼんやりと定義し、はじめて見た花や草木に対してその文法を当てはめ、それらを「植物」だと認識しているのである。

「茹でた孫」がおかしいと理解できること、「ペンは植物ではない」と判別できること、こういった認識に先立ち、私たちは当たり前の規則を共有している。その規則がわからなくなってしまうのが離人症の症状であると言える。ブランケンブルクの提示した「自明性」とはこうした規則のことだと考えられるだろう。なぜ自明性が喪失してしまうかといえば、野矢の言う通り、「他者を排除したがゆえの安らぎ」を確保するためである。離人症患者は統合失調症などと同じく、相剋しがたい現実を回避するため、あるいはそういったものから自身を護るため、他者や対象との関係のなかで自分の生を営むことをやめてしまう。前出の木村の患者も然り、ブランケンブルクの患者アンネも、私たちが普段当たり前に了承していることを適切に認識することができない。

私に欠けているのは何なんでしょう。ほんのちょっとしたこと、ほんとにおかしなこと、大切なこと、それがなければ生きていけないようなこと・・・・・・。

ことばのちゃんとした意味の感覚がなくなってしまったのです。いろんなものごとの感じがないのです。たとえば病気とか苦しみとか日常生活とか。(ブランケンブルク『自明性の喪失』Ⅴ章)

アンネは「病気とか苦しみ」を言葉としては理解できる。しかしその意味がわからなくなってしまったという。私たちは「苦しみ」とはどんな体験のことを指すのかを、自分の経験を基に、あるいは伝え聞いた経験を基に理解することができる。だが彼女は言葉とそれが指し示す生身の苦しみとを結びつけることができないのである。木村の患者について言えば、私たちが自明の事実としてやり過ごしている、自己の連続性について疑義を抱いている。昨日の自分と今日の自分が地続きであることは明白なのに、その自明性を、その意味を、適切に認識することができないのである。

 

●付記

なかば書き散らかしたような内容になってしまったことはお許しいただきたい。離人症の件については今後もおりに触れて書くつもりではいる。健常者のもつ“病的”な側面をひきずりだすことは自分を見つめなおすことであると私は思う。ここに書き記すものは、病を肴にした思索遊戯の言説ではなく、あくまで私個人に向けた自己分析の手綱であることをあらかじめ断っておきたい。