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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『ウツボラ』を読む(感想・レビュー)

感想・考察(レビュー) 感想・考察(レビュー)-ウツボラ 漫画 漫画-ウツボラ

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エロティクス・エフ』に連載された中村明日美子の怪作。それにしても枯れたおじさんが若い女にたぶらかされる物語は最高だな。ここに精緻な描写があれば立派な耽美小説ができあがりそうだけれど、漫画媒体ならではの手際よい運びと言葉少ないコマ割りで、視覚の描写が言葉の描写の代わりをしっかりと務めている。

実は本作はある程度推理をしておかないと読みが成立しないようなつくりとなっており、「横領OL=三木桜」、「秋山富士子=『ウツボラ』の作者」という背景だけは先に記しておく。

 

●藤乃朱という“登場人物”

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作品内で登場する小説「ウツボラ」。その登場人物のモデルとも言える女性が藤乃朱であり、同時に彼女は溝呂木、三木桜、秋山富士子が織りなす三人の“物語”の登場人物でもあると言える。ここから見えてくるのは、単なるいれものとしての藤乃朱という役柄であり、いれものに過ぎないのに血の通った人間として立ちあがってくる、その生々しさである。

三木桜と秋山富士子はふたりで藤乃朱という人間を演じる。ふたりでひとりの人格を分けあい、次第にふたりの境がなくなるという体験は、三木桜の口を通して物語の随所で描かれる。しかし溝呂木が自らの物語しか愛せないとわかったとき、ふたりの間で決定的な乖離が生じた。秋山富士子は小説の登場人物として永久に溝呂木に愛されることを望み、三木桜は小説が書きあがることを望む。やがて三木桜も溝呂木に心を寄せるようになるものの、「私は作家ではないのだから」という最後の言葉でも示されたように、あくまで文学ではなく身体的な――あるいは現実的なとも言えるかもしれない――結びつきを溝呂木に求める。

諸論あるようだけれど、この点から見れば、溝呂木が死ぬ前夜に三木桜と彼はセックスし、そのとき彼女が身ごもったのではないか、という見方のほうが納得はいく。ただこの推論の正誤はあまり重要ではない。子供と生きてゆくことを示唆する最後の一場面が、三木桜があくまで実際的な人間であったことを裏づける、というくらいでとどめておけばよいだろう。

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やや話がそれたが、死ぬことで藤乃朱としての自己を定立する秋山富士子と、溝呂木と関係することで藤乃朱を演じつづける三木桜は、フィクションと現実の両側から溝呂木の作家性を支える役割を果たしたのであった。すなわち、前者はフィクションの、後者は現実の「藤乃朱」を担う形で、溝呂木が小説「ウツボラ」の登場人物藤乃朱を生みだす詩的女神となったのである。

同じ役割を通じて別々の自己を確立するさまはとても興味深い。“藤乃朱”という物語を経てふた通りの物語が語られるのである。さらに溝呂木はそれを小説の形でひとつの物語に統合してみせた。美しいことこのうえない。溝呂木、三木桜、秋山富士子の生きる理由はそれぞれ異なり、しかしそれは互いの生に依存するというこの二律背反こそが、生きることの難しさそのものと言えるのではないだろうか。

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●いつもより長い付記

恣意的解釈なので本文からは外したが、私が個人的に気にかかったのは、三木桜が秋山富士子を愛していたのではないかということ。ことのはじまりとして三木桜が秋山富士子や溝呂木に関わる動機がほかにまったく見つからない。上に添えた三点目の画は辻と三木桜が寝る場面で挿入されるものだが、このふたりはどう考えても女どうしであり、辻と交わりながら彼女が秋山富士子と身体を重ねたときのことを思い起こしているとしか考えられない。先の身ごもった子供の一件もそうだけれど、ここには物語を読者が自分で自分の側にひきつける二次創作的な余地があり、自由な解釈が許される遊び場ともなりうる。物語を読む醍醐味のひとつであると言えよう。

それにしても『エロ・エフ』が休刊になってしまったのは本当に残念だった。こういう雑誌がだめになる漫画市場はもう夕暮れを迎えつつあるなあ、と憂えてしまうけれども、変妙奇怪な物語はまだまだ隠れているはずである。そういった作品との出逢いにこれからも大いに期待したい。

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