ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『たまゆら』を読む 後夜

f:id:SengChang:20160908214903p:plain

すでにある大切なものを確認する物語。大きな変化はなく、出だしの状態からほとんどなにも変わらないのだけれど、ひとはなぜ過去をふり返らなければならないのか、その問いかけに対する答えがまっすぐに伝わってくる。いまの自分がなにをもっているのか、なにを大切にしているのかをふり返る。前に進むのはそれからでいい。そんな堅実なメッセージが作品からは感じられる。楓(ふう)たちそれぞれの内省がのちの卒業編での変化・進展に結びつくあたり、本作は本当に考え抜かれている。

また、多くの物語は変化からはじまるところを、足場を確かめて一歩踏みだす物語のみで二期つくっているあたりがすばらしい。過去を顧みるには本当に長い時間が必要であること、さらには父親の死が楓にもたらした傷の深さもまた、その時間の長さから間接的に感じとれるようなつくりになっている。

 

●二世代の物語(2期9話)

f:id:SengChang:20160908215456p:plain

楓の父の友人である夏目に彼女がはじめて出逢う回。夏目は父が写真をはじめたきっかけとなったひとであり、写真の腕もよかったことがマエストロ(父と夏目の共通の友人)から語られる。その夏目に写真の技術を酷評された楓は、周囲の友人たちが憤りを見せる一方で、なにか大切なことを言われている気がする、と冷静に受けとめる。

そんな楓に志保美さんがかけた言葉は、いまは「好き」を育てる時期なのではないか、というもの。写真を撮るうえで自分にとってなにが大切なのかを確かめるようにシャッターを切る。そのなかで自然と変化は訪れるものであり、ここでの技術と嗜好の問題は、のちに楓に東京ゆき(写真を勉強すること)を決意させるきっかけともなる。夏目の指摘により楓は、自分がどう写真と付きあってゆきたいのかを考えるきっかけに恵まれたのだと言ってよい。

f:id:SengChang:20160908215507p:plain

ここに重ねあわされるのが写真をやめてしまった夏目の過去である。本編では語られないものの、高校時代の夏目は楓のように「育てるべきもの」を見つけられなかった人間であり、だからこそ腕があったにもかかわらず最終的には写真をやめてしまった。夏目は以前、楓の父にも同じように写真の技術を説いたことがあるらしく、そのことをうちあける楓との対話のなかで、けれど楓の父にとって大切なのはひとに見せる写真を撮ることではなかったのだ、と述懐する。

『自分が撮りたいのは、好きな風景や好きな友達。・・・・・・かわいい子供ができたら、子供も一緒にいろいろなところに行って、たくさん思い出をつくって、その子が大きくなっていく姿を撮る。撮りつづけたい』ってな。

それを聞いて、ばかな高校生だったおれは言ったんだ。

『つまらない』と。

f:id:SengChang:20160908215520p:plain

楓と同じように、彼女の父もまさに「好き」を育てつづけたひとだった。彼が死ぬまで撮りつづけたその「つまらない」写真は、数十年経って故郷を訪れた夏目の心を大きくゆさぶる。そして夏目や楓の父ができなかったことを、いま眼の前で楓が実現しようとしていることに気づく。

夏目の言う技術と、楓の父が大切にした好きという気持ちの、どちらが欠けてもだめなのだという思いが、やがて楓のうちに根づくことになる。のちに彼女が導かれるように写真を勉強しようと決意するそのきっかけはここにある。写真の技術を勉強しながら自分の好きを育てること。それは夏目と父のふたりがもっていたものをひとつに束ねて受けつぐことでもあった。

※劇場版第四話では、父のカメラが壊れた時機に夏目から新しいカメラをもらう。父のカメラで「好き」を育てた楓が、次のステップとして、技術を学び「好き」をさらに広げてゆく可能性をここから感じとることができた。

 

●潮待ちの時間(2期10話)

f:id:SengChang:20160908214853p:plain

自分の目標や、それを摑むきっかけを探すかなえは、後輩四人と大崎下島へ撮影旅行に出掛ける。かなえの自問自答が実を結ぶこの回は、小さな気づきをくり返すことで日常が豊かになるさまを描いた美しい回であった。

楓たち四人と比べて、自分にはなにか明確な目標があるわけでなく、心を広げてゆくきっかけに出逢えていないと感じるかなえは、彼女たちに話を聞きながら、自分が大切にすべきものを改めて見つめなおそうとする。そのなかで彼女は麻音の父から大崎下島が潮待ち島と呼ばれていることを聞かされる。潮の流れを待って船で漕ぎ出ていった昔人を顧みながら、中学のころの麻音も、やはり潮の流れを感じて竹原に行くことを決意したのだと、麻音の父は語る。もしその潮の流れが自分に来なかったら、と問い返すかなえに、「来ます。必ず。」と彼はやさしく答える。それがいつかは誰にもわからないけれど、必ずやってくる、そういうものなのだ、と。

f:id:SengChang:20160908214841p:plain

いままで気づかなかったことに気づき、それが現在だけでなく、未来をも形作る枝葉となる。『たまゆら』はその過程をとても丁寧に追いかけた物語である。かなえ自身の発案であるくだんの撮影旅行が、麻音の大切な再会のきっかけになったと知り、自分の行動もほかのひとにとってのきっかけになりうるのだとかなえは気づく。そして、自分にとってのきっかけは、楓のいる写真部に入ったことであったと思い至るのである。“ない”のではなく“気づかない”だけなのだという、多くのひとが見つめなおすべき事実を提示してくれるエピソードではないだろうか。

自分のもつ大切なものをどう扱うべきかがわからない、それが自分の未来にどう働きかけるのかがわからない。現在を形作った過去のあるきっかけは、実は未来を形作るきっかけともなる。そのことに気づくとき、彼女たちの過去、現在、未来がきれいにひと筋の線で結ばれる。そのさまは見ていて本当に心地がよい。これはかの『わんおふ』でも提示された形であった。

f:id:SengChang:20160908214814p:plain

たまゆら』では周囲のひとたちが誰かになにかを圧しつけることがない。彼女たちひとりひとりが自分で気づき、自分で難事を解決する。本篇のかなえのエピソードも同様に、誰かがなにかを言ったとして、それが直接的に問題解決の糸口となるのではなく、その言動をもとに自分で過去の宝を見つけだし、現在の見方を大きく変えてゆくのである。この道すじがとても現実的でよい。

その一方で彼女たちの様子を黙って見守る大人たちがいる。そのあたたかさに気づくとき、彼女たちは本当の意味で問題を克服し、大人に向かって成長してゆく。『たまゆら』における大人の存在はその意味で無尽蔵とも言えよう。大人とはかくあるべきという模範がここに示されており、頭の下がる思いである。

f:id:SengChang:20160908214829p:plain

 

●ふたつめのやや長い付記

乗りこえたはずの父親の死がもう一度楓を捕らえるあたりはぞっとするほどのリアルであった(劇場版第三話)。そのことに気づいてさらに成長する物語は、かなえ先輩のエピソードと同じく、気づくことによって現在を見つめなおす姿勢に軸が置かれており、ここにもやはり『たまゆら』の一貫した主題を感じた。

言葉ひとつで変わるほど私たちの日常は単純ではなく、誰かが救ってくれた、みたいなドラマは現実ではほとんど起こらない。そういった押しつけがましい非現実的な物語がここにはいっさい見られない。その代わりに、克服できない現実を別の現実で踏みかためて進む力強さが描かれ、存外な現実をどう受けいれて進めばいいのか、その難題と向きあおうとする姿勢が至るところに現れている。

f:id:SengChang:20160908215448p:plain

自己確立の主題を中心に読むのが私の物語との付きあい方であるけれど、そこまで大仰ではなくとも、自分の生き方や位置づけを懸命に模索する姿は胸をうつ。子供のそんな姿を通じてすり切れた大人が新たな自分をもう一度うちたてる夏目の回は、しつこい繰り言のようだけれど、最高の回であった。

これにて『たまゆら』のレビューは終了。ひっそりと語りつがれるであろう良作というのは本当によい。そう遠くない未来に、劇場版のレビューを別に書く、かもしれない。

⇒『たまゆら』を読む 前夜 - ワザリング・ハイツ -annex-