ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『パルフェ』を読む 後夜(感想・レビュー)

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前夜の記事ではカトレアを中心に、かすり、明日香と順に触れさせていただいた。

sengchang.hatenadiary.com

みんな大好き里伽子ルートは、なんというか、身につまされることが多すぎて思わず考えこんでしまいそうだった。家族と恋人(他人)のどちらを優先するかという難しい問いを出してきており、それを結婚の約束で解消するというかなり現実的な物語。本筋自体はわりとあっさりしているものの、プレイ後に改めて、他ルートにおける里伽子の孤独な未来のことを思うと、その背筋が凍るような悲劇に頭を抱えたくなる。里伽子本当にかわいそう。

それでは後篇。よい物語だからこそ冷静に丁寧に見ていきたいところ。

 

●“家族”の重さ

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正直なところ里伽子ルートは切りこむのがやや難しく、それは『パルフェ』が大局的に見て、意外と複雑な家族の主題を出してきたことにもよる。家社会の日本において家族の問題は根が深く、精神医学でも第一に挙げられる病の温床でもあるのだから、私たちは無意識のうちに里伽子の口にする“家族”という言葉の重みをかなり敏感に感じとっているのではないか。村社会の日本における閉塞的な家族関係を当然のものとしてひき受けている私たちにとっては、里伽子の言う「家族か私か」の二択はよくわかる話だけれど、実はそれはかなり異常なのではないか、という話である。仁や恵麻の言も含めて“家族”という言葉のもつ意味や意義が複雑すぎてあちこちで糸が絡んだ。「なにを大切にするか」という前記事で出した問題を、本ルートもまた同じようにひき継いではいるものの、大切にする“家族”の定義が随所でゆらぐのである。

本作でみなが口にする家族という言葉はとても曖昧であり、恵麻と仁の家族関係も、血縁や情緒がゆえにまったき純粋とは言えない。だからこそ、あなたが大切なのは本当に家族なのか、と尋ねる里伽子の言葉が奇妙にも説得力をもった。仁の口にする“家族”に、他人は当てはまるのか、それとも当てはまらないのか、そこをはっきりしろ、と彼女は暗に問うたのである。もし恵麻を好きなのであれば、恵麻と仁は家族ではなく他人であり、そうでないのならばふたりは姉弟となる。“家族”に自分の“愛する”ひとが入るのは当然だけれども、仁と恵麻は互いを男女と認めあいながらこの言葉を口にしており、それにさとく気づいた里伽子は、家族=恋人をちらつかせるふたりの間にいつまでも踏みこめないままであった。

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こうした家族からの疎外は、仁-恵麻と里伽子の間だけでなく、ファミーユという“家族”と里伽子の間でも問題となっており、旧メンバーのなかで彼女だけがファミーユに戻らない(戻れない)ままなのだ*。だからこそ、仁と里伽子の仲を修復する重要な場面にあっても、ファミーユやそのメンバーたちはいっさい関わってこなかった。里伽子と仁の間には常に「家族か私」の二択しかなく、里伽子自身も口にしたように、ほかの“家族”たちは二番手三番手にまわってしまうのである。徹底的に疎外された里伽子の孤独は底が見えず、それゆえに他ルートにおける彼女のその後を想像するのはそら恐ろしく、本ルートこそが唯一の正解に見えてきてしまうのかもしれない。

*恵麻ルートを除く。追記:またFDではファミーユのメンバーによる懐柔作戦が行使され、このあたりの展開と対を成すような物語が描かれる。

そういった意味で里伽子ルートは曖昧だった家族の意味を再定義する物語だと言ってもよい。家族はあくまで身内であって、恋人は決して家族ではない。だからこそ仁と里伽子は、恋人になるのではなく、結婚の約束をしたのである。仁が里伽子にした提案は、恋人と身内の格を同位にしようとするものではなく、むしろ恋人という格を切り捨て、彼女を身内に迎えてしまうというものであった。

 

●身体を介したふれあい

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もうひとつ眼をひいたのが、利き手が使えないことによる彼女の私生活への余波である。これが本当にすさまじく、最後の最後まで――文字通りエンディングまで――響いてくる。ノートがとれなくて大学の単位が危うくなったり、大好きだったファミーユで働けなくなったり、ごはんを作ったり食べたりするのが困難になったり、それらすべてを仁にさとられないよう努力したりと、聞いているだけで涙が出てくる。仁の家族の遺骨とブレスレットを救いだした際に障害を負った事実に加えて、この私生活の弊害がさらに里伽子の傷を深めており、それらすべてを隠しておくのはひとえに仁の幸せを邪魔しないためだというのだから、もうなんなんだよう・・・・・・と誰もが思ったことでしょう。私も思った。

軽い火傷をした、と左手の障害をごまかす里伽子を、仁がしばらく介助するくだりがある。ふたりのその後の二年間にもひき継がれる、この身体を介したコミュニケーションは、実はとても大切なものであるように感じられた。身体的に相手を支える行為がそのまま心を支える裏づけとなる、というのは、シャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』にも見られた関係性である。しかしこれまでの事情から疑い深くなってしまった里伽子にとって、単なる言動だけでなく、身体に触れてもらうことで心にも触れてもらうという言葉を介さないやりとりは、なにより心の慰めとなったにちがいない。文字通り仁が里伽子の手となり、彼女が自分の子供を自分の手で抱くことができるよう、ふたりは努力を惜しまなかった。また、普段は決して他人の手を借りようとしない里伽子が、仁の介助を受けいれるということは、全面的に仁を信頼して受けとめている証拠でもあり、彼の償いを肯定する意味ももつ。こうした身体の関わりあいが、互いにとっての互いの意義を明確につくりだし、一緒に苦しむ幸福という答えを正しいものにしたのだった。

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ぼくのたいせつなもの』でも描かれた、セックスではない身体的なふれあいは、相手の心を受けいれるという主体の明確な意識を伝える手段として表現されることが多い。里伽子の例も然り、確かに自分と他者の動きや意志が重なりあう介助の場面では、文字通り互いを受けいれなければ互いの身体は機能しない。そういった身体の関わりあいをふたりの未来を形作る“答え”として出してきたのは大したものだと思わずため息が出てしまった。

 

●ふたつめの長い付記

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“家族”の問題は本当に大きい。過労死がkaroshiとして世界で定着するほど、自己犠牲の精神は日本の伝統美学として皮肉たっぷりに根づいており、私もまた自己犠牲の物語の美しさを否定できない。里伽子の自己犠牲の底にも常にこの問題が横たわる。しかしそれを誘発する要因、あるいは自己犠牲しか答えのない環境要因こそ、本当に挙げるべき問題なのではないか。そんな見地からも物語を顧みて、果たしてこんな記事になってしまった。

また、二年も待たせる約束であの里伽子が納得できる理由は、その二年がとても苦しい二年になるとわかっているからなのであり、そこのところはFDできちんと補完されている。このあたりも抜け目ないですな。

由飛はまあ措いておくとして、恵麻さんの物語はどう捉えればよいのでしょう(笑)。ねじれた共感関係や擬似的な近親相姦など、『パルフェ』の世界観のなかで解決するには難儀な問題に満ちており、それに加えて里伽子の件も解決しなくてはならないという、地獄絵図の物語をうまくおさめてみせた感じだった。ある意味すごい。『パルフェ』はこれでいいのですよ。もちろん『罪ノ光ランデヴー』風香ルートのような答えがあってもいい。そこは物語のバランスの問題。

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さらに他のルートが里伽子の物語を盛りたてる道具みたくなっている、という感想も散見したが、私はあまりそうは思わず、個々の物語が独自の主題と生きる姿勢をうちだしていると感じた。むしろ視点を変えてみれば、どんなささやかな幸せの裏にも、里伽子のように信じられないほど報われないひとが関わっているのかもしれないという、現実的な問いかけがここには見えてくるのではないだろうか。その意味で本作もマルチエンディングのよさを最大限にひきだした一作であったと言えるにちがいない。

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