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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『遥かに仰ぎ、麗しの』を読む(感想・レビュー)

ノベルゲーム(game) ノベルゲーム(game)-遥かに仰ぎ、麗しの 感想・考察(レビュー) 感想・考察(レビュー)-遥かに仰ぎ、麗しの

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相変わらず過去の名作ばかりを次々とプレイしており、もともと古典文学の研究者だった自分の性を感じるところでもあるのだけれど、やはり時を経てもなお面白いとされる作品にそう悪いものはないのである。とにかく丁寧だったという印象の『かにしの』。穏やかな雰囲気を壊さない慣習的な主題も決して浅薄な感じはせずうまく扱われておりました。本校ルートのみ終了。分校はもしかしたらやる、かもしれない。

以下は梓乃ルートを中心としたレビュー。

 

●関係の病:梓乃√

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他者と関わるうえで大切なことを教えてくれる梓乃ルート。過去に同級生からいじめられてひきこもりとなった経験をもつ梓乃は、対人恐怖症をこじらせたまま学園で生活しており、殿子との関係のうちに自己同一性を見出している。しかし司が殿子と急速に仲良くなるにつれて、殿子が自分の知らない殿子に変化し、司によって奪い去られるという強迫観念に囚われてしまう。さらには元凶である司を責めるという、問題の根から摘もうとする関係妄想寄りの症状が現出。これは『罪ノ光ランデヴー』あいルートでも展開された主題である。ひとを恐れてばかりだった梓乃はこのときはじめて誰かに対して憎しみの感情を抱く。

意外と頑固なところもある生真面目な梓乃は、こうでなくてはいけない、という決めつけの強いメランコリー親和型である。殿子がいなくなれば自分はきっと部屋にこもって壁を見つめる生活に戻ってしまうにちがいない、と梓乃自身が述べるように、幼少時代の彼女は鬱病の症状に悩まされていたようだ。「メランコリー患者にとっての対象消失」は、「その対象をめぐってそれまで内面的に慣習化されてきた役割秩序の無効化を意味する」とされ(木村敏『分裂病と他者』12章)、内面化された自分のふるまいが突然白い目で見られるようになり、周囲から孤立したという幼少時の梓乃の体験は、まさしくこれに相当する。「(殿子を失えば)とり返しのつかないことになる」と彼女がくり返し思うのも、メランコリーの人間に特有の喪失を過度に恐れる態度でもある。

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さらに彼女の対人恐怖症は心身症の傾向が強いものとして描かれていた。木村敏ヴァイツゼッカー心身症に関する言をまとめながら、「身体は健康なのに心理的な原因によってその機能が損なわれているというようなものではなく、生体そのものが全体として環境との相即関係に対応できず、主体/主観を維持するために応急的に心身両面の機能を変化させている事態である」(木村敏『心の病理を考える』Ⅱ章)と述べる。梓乃の対人恐怖症は関係の病であり、ヴァイツゼッカーが言うところの環界と自己がうまく相即できない、すなわち環境に適応できない自己が生みだす防衛手段なのである。だからこそ彼女の病は司との、あるいは級友たちとの、関係のなかで改善されてゆく。反復する過去のトラウマを直接乗りこえるのではなく、自己と環境の結び方を学びなおす過程を通じて、梓乃は病を克服する糸口を摑んだ。

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梓乃ルートで面白いと思ったのは、司憎悪の一件が、くしくも梓乃がはじめて主体的に動くきっかけとなり、殿子だけでなく自分自身も変化しはじめたことに気づくところである。司を陥れようと様々な罠を仕掛けるなかで、相手にかぶせようとした苦しみが自分自身に降りかかったり、またかつて自分が受けた苦しみのなかにいる相手を救いたいと思うなど、世間知らずのお嬢様が具体的な経験から痛みや喜びを学ぶさまは心に響くものがあった。一連の騒動を通じて、司への憎しみはやがて思慕の感情へと変化する。心が状況の関数であると認識する過程がこの梓乃の物語であったと言ってよいだろう。

司と梓乃の境涯は似たものがあり、ふたりとも他者に裏切られた過去をもつため、肝心なところで相手が自分に踏みこんでくるのを拒んでしまう。そんな不器用なふたりだからこそ、互いが傷つかないよう思いやりをもって接しながら、長い時間をかけて少しずつ互いの内側に入りこもうとする、その気持ちのあたたかさには心うたれた。不器用な心を肯定する王道の物語はやはりすばらしい。

 

●子供-大人という関係

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『かにしの』はおおむね大人の事情にふりまわされる子供たちの物語だと言ってよい。本作に限ったことではないが、思い通りにならない子供を育てたのは自分たちであることを私たち大人は忘れすぎである。たとえば「いまの若いひとたちは考えが甘い」という言説は、甘い考えをすりこんできたのがいまの大人たちである、という事実を棚に上げて成りたつ論理であり、このあたりは水かけ論というか、世の中で定番の責任転嫁であると言わざるをえない。

そういうなんでも決めつけてかかる大人たちが、子供たちと直接ふれあう機会にめぐまれ、次第に彼女たちに関わる仕事に誇りを見出す様子にはとても感銘を受けた。みやびルート、学祭準備でのひとこまである。とある警備員が、ああいう子たちを警備しているんだと知って仕事をがんばろうと思いなおした、と漏らすところなど最高ではないか。大人が子供になにかを説くだけの物語は、機械的に教訓(lesson)を埋めこんだだけの時代遅れな寓話とそう変わりはなく、大人と子供、相互の恩恵を重んじる豊かな物語の前にあってはもはや色褪せて見える。本作は司が生徒たちに様々な気づきを与えながらも、彼自身生徒たちから生きる強さを学ぶ物語となっており、そこにとても好感を抱いた。

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さらに、子供と大人の関係に載せて、自律することと他者を頼ることの緊張関係についても随所でしきりにとりあげられていた。自分にできることとできないこと、すべきこととそうでないことをより分け、己ひとりでなにもかもはできない無力を自覚する。志藤由に対しても然り、すべてひとりで背負う傲慢な態度を司は赦さず、ひとの手を借りるよう切実に説く。これは『LOVESICK PUPPIES』でもしきりに強調された態度であり、あの作品でもやはり子供と大人(あるいは教育)の観点からこの問題をとり扱っていたのは記憶に新しい。恋愛関係に主眼を置くノベル・ゲームならではだが、しかし頼る/頼らないの緊張関係をほどく術に答えはなく、なるほどこれは意外と難しい問題なのかもしれない、と本作をプレイしながら改めて思った。

 

●付記

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梓乃ルートという奇蹟。他者を信じて生きることの意味を何度も問いなおした真摯な物語である。本当によかった。私が求めていたのはこういう物語であったと言ってよい。今年の傑作ルートとして記憶に残るであろうすばらしい物語だった。

人物造形が完璧だった殿子ルートは、ルートそのものより殿子の人間性がすべてという具合で、特別にとりあげるべき主題を見つけることができなかった。残念。殿子という人物をよく知るためだけにすべてのルートをやってもよいと思っている。無論、梓乃ルートにおける彼女の功績が大きかったことも言を俟たない。

そのほか、教育の姿勢について汲むべき見解がいろいろとあったのだが、こちらは説教くさくなるのでとりあげるのをやめた。そこが肝というわけでもないのでとりあげるだけ野暮だろう。

追記:鏡花を攻略させてください。

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