ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『紙の上の魔法使い』を読む 前夜(感想・レビュー)

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疲れた、というのが正直な感想。まるで19世紀イギリス小説を読んだあとのように、なにか書くって言ったってどこから手つけりゃいいのよ・・・・・・と途方に暮れてしまった本作。挿話の量だけでなく問題提起の量もひとしお。必ずしも個々の主題が十分表現されていたわけではないけれど、投げかけられる問題のひとつひとつが、次々と別の主題と手を結んで広がるさまは圧巻であった。

前夜は文学を手掛かりに物語を読んでいきます。どちらかというと外枠の話。

 

●小説の歴史と物語の形式

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気づいた読者もいるかと思うが、本作で彼らが開く物語の多くは、西洋の小説形式・技法*に則ったものとなっており、列挙すればほぼ小説の歴史がひと通り語れてしまう。冒頭のヒスイは推理小説(detective novel)、アメシストは怪奇譚(fantasy)、妃の日記文学書簡体小説(diary / epistolary novel)、理央の物語は伝奇・寓話(fairy tale / fable)、妃復活の物語は自伝的小説(autobiography)、遊行寺家の過去を語るノンフィクション(non-fiction)、瑠璃と夜子の偽の過去を語る回想文学(retrospective novel)に、クリソベリル誕生秘話という民間伝承(folklore / oral tradition)。これらすべてを挿話として擁する物語が『紙まほ』であり、この点からすでに卓抜とした色合いが見てとれるうえ、物語に対する深い愛情が感じられる。文学狂の私は途中でこの事実に気づいて椅子から転げ落ちそうになった。

*厳密には小説が小説として定義づけされた時代以前の物語形式もここには含まれている。また、本作では理央の吸血鬼の物語が「ファンタジー」とされているが、分類としてはむしろfairy taleであり、かなたの挿話がfantasyに相当する(日本語の「ファンタジー」は広義の意味で使用されているため語用自体は間違いではない)。

物語の形式について少し言及すると、起承転結のないなにげない日常的物語――闇子さんの仕掛けたルビーの物語や妃の望んだアパタイトの物語――が本作では“望ましい”物語として登場する。現代日本文学では、たとえば堀江敏幸多和田葉子が、こうした起承転結のない徒然なる物語を書いており、日本文学の太い支流をつくりつつある。起承転結のある「枠組み」や「設定」、「結末」のすぐれたものだけがよい物語なのではない。メディアの種類を問わず、いまは伏線回収だけを目的化する物語の悪しき慣習が世の中全体に根づいており、人物がいきいきとせずに“死んでいる”物語は本当に多い。しかし『紙まほ』はこうした事情までもを逆手にとってその力の淵源としてしまったおろそしい作品である。

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本作は伏線回収の物語でありながらも、人物は決して死んでいない。その理由は魔法の本の開く物語の根幹がすべて登場人物の「演技」にゆだねられているからである。枠組や設定に血を通わせて物語を語るのは、結局のところ現実に生きる彼ら自身であるという見解を提示し、この姿勢を全篇にわたって貫き通してみせた。さらにジョーカーのような人間が思わせぶりな言葉を吐いて布石を置くのでなく、人物それぞれの自己確立の過程において不可欠な言動が、その先の出来事の伏線となっていた。そして各挿話を束ねる際には、彼らは起承転結のない日常という物語を心から欲し、因果関係に支配された単純な物語を斥けるのである。つまり本作では、伏線回収の物語が日常というなにげない物語を強調するために用いられており、伏線回収を強調するため日常場面を利用する慣習的な物語構造を、そのままひっくり返した型を用いて語られた物語だと言える。

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また作中で開かれるいくつもの物語は大きなひとつの物語を構成する要素となる。いくつもの挿話が折り重なって互いに作用しながらひとつの物語ができあがる。これが内容と枠組みを一致させるメタフィクションおなじみの手法であることは改めて言うまでもないであろう。

 

●“知る”という悪:知る=語るの定式

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魔法の本の物語は各人の否定的性質を解放する役割を担っており、主人公瑠璃も含めて、全員一度は闇落ちする。否定的な部分を問題化して解決するエロゲの定式をこういう形でねじるのはなかなかうまい。彼らの闇は彼らの本質に根差すものでもあるため、個々の章において、それとどう向きあうのかが物語の軸となった。ここでも本作は他作品とは一線を画した問題提起をしてみせる。単に否定を受けいれるありきたりな二人関係を説くのではなく、その心の闇を語るかどうか、知るかどうか、という判断を問題としたのである。

知ることが罪悪であるという主題は、文学においては、ミルトンの『失楽園』にその淵源があった。本作でこの主題が前景化してくるのは理央の章あたりからであり、クリソベリルが理央を誘惑して本を開かせるところは、イヴを誘惑したヘビ(サタン)の挿話を思い起こさせる。ヘビにそそのかされて知恵の実に手をつけてしまうイヴは、まさにクリソベリルにそそのかされて自らの闇を物語として語ってしまう理央や汀、夜子に当たるのであろう。そしてクリソベリルはサタンと同様、人間の否定的心中を当人に自覚させる役割を担っており、ゆえに本を開いた当人とクリソベリルとの対話は、彼らが自らの闇に気づき失望したうえでの自己問答であるとも言える。この理性と感情の葛藤と弁証法的対話形式に焦点化するあたりも非常に西洋的な本作である。

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当人が心で願ったからこそ魔法の本の物語が開く。そのように諭しクリソベリルは本を開いた人間に自らの悪を認めるよう糾弾する。心に抱いた時点でそれはもうすでに罪であり、心中に浮かぶその思いこそが“本心”だと即断するクリソベリルは、キリスト教の精神が色濃く映しだされた存在であった。ひとはみな他人を排斥するようなおそろしい考えを心中に抱くこともあるが、これに対し瑠璃やかなたは、しかし心中で思うのと語るのとでは大きなちがいがあると主張し、すべての元凶である夜子の立場を進んで擁護しようとした。他人を陥れたいという気持ちは夜子の本意ではない、恣意的に心中を“解釈”し、陥れるような物語を語らせたクリソベリルこそが悪である、というのが彼らの指摘である。『失楽園』では知を得ることが罪として語られたが、クリソベリルの主張では、知ることと語ることはあくまで同一視されており、一方の作中人物はそれを必死に分離しようと試みる。

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思うことと言葉にすることはちがう、というこの問題は、その後に続く夜子の挿話で解決されることとなる。魔法の本によって内面がだだもれになってしまうというのは、翻ってみるに、抑えこんでいた切ない想いも正直に語られてしまうということである。夜子がどんなに恨みつらみを魔法の本に込めたとしても、大切なひとたちを本当の意味で排斥する物語は最後まで紡がれなかった。さらには、自分に関わって不幸になるひとがこれ以上出ないようにと、夜子は世界から忘れられる物語を紡ぐが、“忘れられたくない”という本心が物語に反映され、それにさえことごとく失敗してしまうのであった。こうして心中の想いと語られた想いとは有機的な関係に落ちつき、魔法の本の必要性が否定されてゆくのであった。

 

●マルチエンディングとメインヒロインの否定

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アメシストの物語はマルチエンディングの揶揄であろう。一度は瑠璃と結ばれたかなたであったが、ほかのルートで彼が別の女の子といちゃいちゃしているのに耐え切れず、嫉妬で闇落ちしてしまう。しかし実はここには、四年越しのかなたの想いも絡まっていたことがのちに語られ、単なる揶揄ではなかったという種明かしがあるのは大したもの。さらにメインヒロインが二番手に落ちるという驚愕の展開も然ることながら、サブヒロインたちの想いをひとつひとつ拾ってゆく展開がすごい。マルチエンディングを諷刺するだけでなく、むしろそれを最大限に生かしながら、たったひとつの物語を完遂する。この『何処へ行くの、あの日』を彷彿とさせる主題については後夜にて詳述する。

 

●前夜の付記

ちょっと見過ごせないほど「てにをは」の狂った文をつくってしまうあたり、作家の素人くささを感じたが、シナリオ自体は上質そのものであったから赦さざるをえない。助詞・助動詞の間違いがはなはだしく、おそらくはまったく推敲をしていないと思われ、きっと時間がなかったんだろうな・・・・・・と業界の厳しさを察することにした。

欧米の文学を専門にしていたこともあり、徹底的に自己問答を突きつめる物語には親しい。負の自己との対話を思わせるクリソベリルと作中人物との問答を見ていたら、『カラマーゾフの兄弟』でのイワンとその分身との対話を思いだした。特に夜子はクリソベリルとつがいだからという理由もある。負の自己を別の人間に投影する主題のほか、汀の愚行と執念を通じて各々の妃に対する感情の深さを理解する瑠璃と夜子の代理体験など、本作もやはり精神病理学的主題が随所に垣間見えた。自己の主題については後夜でじっくりとりあげようと思う。

⇒『紙の上の魔法使い』を読む 後夜(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

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