ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『紙の上の魔法使い』を読む 後夜(感想・レビュー)

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妃ルートの満足感は筆舌に尽くしがたい。鬱にならない作品を物語としてあまり信用できないと思ってしまう私は、めくるめく訪れる鬱エンドの連続に終始笑顔であった。まあそれはさておき。

『紙まほ』はとにかく情報量が多い。それゆえ情報の氾濫とそれによる自己と環境の軋轢が大きな主題ともなる。これを情報に踊らされる現代の我々を皮肉に描いた物語として読んでもよいだろう。自己の主題がいかに描出されているかというのが後夜の主な着眼点。断絶のある不連続な自己がかなり問題視されていた本作であった。

 

●「つくられたもの」と「つくるもの」

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魔法の本の支配力は絶対であると謳われており、物語の効力で心にゆがみが生まれてしまう状況が問題とされる。しかしながら、すべてが本の力であるかと言えば無論そんなことはなく、人間の主体的意志は本の力に抗う術となる。冒頭で夜子が述べた通り、あくまで物語は枠組みにすぎず、その台本を基にどんな物語が展開されるのかはあくまで“演者”の手腕による。展開上必要な感情は本によって与えられてしまうかもしれないが、その「設定」をどうこう考えるのではなく、眼の前にある現実といかに向きあうのかが大切だという。結論から言えば、演者が台本を書きかえることは原理的に可能であり、ここからはご都合主義以上の興味深い主題が見えてくる。

魔法の本が各人にそれぞれの「設定」を押しつける一方で、押しつけられた彼らは様々な言動を通じてその運命をねじ曲げてゆく。妃がオニキスの物語を自殺で喰い止めたように、積極的に物語に働きかけることで、彼らは物語を歪曲するような影響力を獲得する。魔法の本によって定義された存在であるはずの彼らが、むしろ物語をつくり直す側にまわるさまは、西田幾多郎の哲学と深く響きあう。

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主体が環境を、環境が主体を限定し、作られたものから作るものへという歴史的進展の世界においては、単に与えられたというものはない、与えられたものは作られたものである。与えられたものは作られたものであるということは、環境というものが主体的に摑まれたものということでなければならない。(西田幾多郎「行為的直観」)

「自己は環境によって『作られたもの』であり、環境は自己を『作る』ものであるが、しかし同時に自己は環境を作り、環境は自己によって作られる」と捉えるのが、西田の言う自己と環境の関係であった(小坂国継『西田幾多郎の思想』第15回)。本作において環境とは魔法の本の物語だと捉えなおしてよい。本によって“つくられた”存在である瑠璃たちが、製作者である本に影響を与え、物語を“つくる”のである。これは『何処へ行くの、あの日』における絵麻と千尋の関係に等しい。魔法の本から存在論的な干渉を受ける瑠璃たちは、しかし魔法の本へ恣意的に働きかけ、有機的に変化する環境との関係をその都度結びなおし、魔法の本の物語に生きた変化を与えつづける。

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冒頭の数章をプレイしただけだと、まるで作中人物を駒のように扱った悪しき作品のようにも思われるが、そもそもそれこそが本作の狙いであり、後半はそこから這いだす葛藤の物語が紙幅を厭わず語られる。このあたりがとんでもなくよくできていた。人間が影響を受けるものでありながらも影響を与えるものでもあるという事実を、本質的な自己像の探求を通じて、かなり高次な議論にまでひきあげる。自身の言動が物語の設定なのか否かは大した問題ではないのだ、と妃が明言していたように、本による影響を精査するのではなく、眼前の現実をどう受け止めるかという、いわば生きる姿勢に焦点化したあたりに、作家のすぐれた技量を感じた。このあたりは次節の自己の獲得・確立の問題に喰いこむところでもある。

 

●自己という関数

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前述の「つくられたもの/つくるもの」の主題は自己の不統合にまつわる問題でもある。瑠璃たちは魔法の本によって「設定」を強要されたり、解放されて元に戻ったり、あるいは死んでしまっても本によって生き返ったりするため、自己の連続性に疑義を抱いてしまうのである。妃や理央のよみがえる章、さらには瑠璃すらも紙の上の存在であることがわかる章では、この問題がより深く掘りさげられた。

本の物語によって衝き動かされる自分と、そうでないときの自分。両者をどちらも自分自身と捉えるべきか否かに瑠璃たちは頭を悩ませる。変化を強要されながらも甘んじてそれを受けいれ、ゆれたままの現在の自己を新たな自己と認めながら物語は進む。復活した妃のルートでは、自分はあくまで偽物であり、所詮はリメイク作品のようなものなのだ、と妃が自己同一性を否定するくだりがある。しかし瑠璃はのちに自分もまた一度死んだ存在であるという事実を知り、妃の否定した自己の連続性とどう向きあうのかが、彼にとっての課題となる。たとえ紙の上の存在であっても、自分がいまここにいるのはなにか意味があるからだろう、と口にした妃の姿勢を受けつぎ、さらにはみなから忘れ去られても四年かけて関係を紡ぎなおしたかなたに衝き動かされ、夜子への責任を果たすという行動のうちで瑠璃は自己同一性をとり戻す。生かされるのと生きるのとはちがう、というのが、瑠璃が最終的に出した結論であった。

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夜子ルートにおいて妃は、本物かどうかを特定することに意味はなく、なにをもって認識するかという問題なのだと述べているが、彼女の言葉はウィトゲンシュタイン哲学探究』の他我論とうまく響きあう。物事の認識は「生活形式(form of life / lebensform)」、つまりは「われわれの生き方、態度」を表すものであり、それが正しいか否かは問題ではない(野矢茂樹『心と他者』第二章)。たとえ不連続な自己だとしても、次々と現れる新しい自己を受けいれる意義があるのだとすれば、躊躇なく受けいれる覚悟をもつべきだと、妃は主張しているのである。妃ちゃん、君は精神病理学者ですか。ドイツの神経科医であり哲学者でもある ヴィクトール・フォンヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』において彼女と同じことを述べていた。

主体とは確実な所有物ではなく、それを所有するためにはそれを絶えず獲得しつづけなくてはならないものである。・・・・・・われわれの環界に属しているいろいろな対象や出来事が知覚や動作において統一性を構成しているのがひたすら機能変動によるものであるのと同様に、主体の統一性もまた、非恒常性と転機とを乗越えて不断に繰返される回復においてはじめて構成される。(ヴァイツゼッカーゲシュタルトクライス』「ゲシュタルトクライス」)

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 紙の上の存在ゆえに自同性が保たれていなくとも、西田が言うように自己とは本来不連続の連続そのものなのであり、環境世界によって常に変化する関数である。その変化を受けとめる覚悟をもって強く生きることを主張した妃の存在は本当に大きい。つくられたものとつくるものとが互いに作用しあいながら――ヴァイツゼッカーの言葉を借りるなら「からみあい」を続けながら――次々と新しい関係をうち立ててゆく、そんな私たちの日々の営みを誠実に追いかけた物語が、『紙まほ』という作品なのである。

 

●『何処へ行くの、あの日』への目配せ

sengchang.hatenadiary.com妃ルートも然り、夜子ルートも展開自体は『何処あの』とほとんど同一。瑠璃と夜子を恋人どうしにすることがクリソベリルの目的であるため、ほかのヒロインと瑠璃が結ばれるエンドはすべてbad endに終わる。これもまた『何処あの』の虫喰いエンドと同じものである。そして結末では、瑠璃と夜子が結ばれる物語をクリソベリルはついに見つけることができず、夜子が現実を受けいれてみなと生きる道を選ぶわけだが、絵麻が兄と結ばれる未来を見つけることができなかった展開とこれも同じである。

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同じであることを批判するため比較をしたわけではなく、むしろ『何処あの』で深められていなかった諸々の存在論的な主題を、よくぞここまで突きつめてくれたと高く評価したいのである。これは同じ型を用いてここまで異なった物語を語れるという見本とも言えるのではないだろうか。

親友の妃から強さをもらい、瑠璃に選ばれない現実を絶望しながらも受けいれた夜子には、本当に心をうたれた。『紙まほ』は、選ばれないヒロインを物語の枢軸に据え、ままならない現実とどう向きあうかという難題と真摯に向きあった物語でもあるのだ。

 

●後夜の付記

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最高の鬱をありがとう。なんでこのゲーム評価低いの?

それにしても、さもありなんと言うべきか、長篇でないと語れない厚みのある物語というものを久々に体感した気がする。とても贅沢な時間であった。かなたや妃、理央という、いわば脇役の人物たちに、想像を絶するほどの背景が隠されており、ひとというのは誰しもこういった分厚い歴史を背負って生きているのだなと改めて思った。一言のもとにひとを切って捨てることもある自身の行いを深く反省せざるをえない。ごめんなさい。

『何処あの』以外にも、妃の開いた(本当はかなたが開かされた)サファイアの物語は『サノバウィッチ』の寧々ルートを彷彿とさせ、本を閉じたあとも各人に想いの残滓が残っているのは『CLANNAD』の風子ルートを想起させるなど、様々な作品を思い起こさせる鍵が多くまかれてあって、プレイしながらとても楽しい気持ちになった。こういった物語どうしの響きあいも読書の楽しみのひとつである。

作中人物を個々にとりあげることはしなかったけれど、すべてのキャラクターが本当に丁寧に描かれており、どのルートにあっても生きるむつかしさが切実に扱われている。『紙の上の魔法使い』は私が自信をもっておすすめできる一作となった。

⇒『紙の上の魔法使い』を読む 前夜(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

⇒『紙の上の魔法使い』を読む 続(感想・レビュー) - ワザリング・ハイツ -annex-

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