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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『最果てのイマ』を読む 試論(感想・レビュー)

ノベルゲーム(game) ノベルゲーム(game)-最果てのイマ 感想・考察(レビュー) 感想・考察(レビュー)-最果てのイマ

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攻略サイトをつくったひともすごいけれど、場面をすべて整列しようとがんばるひとたちがもっとすごい。この記事は彼らの努力を否定するような内容ではあるが、むだな努力と言いたいわけではなく、むしろそういうひとたちがいたからこそこの発想に至ったということを前もって断っておく。なぜなら、どうがんばっても矛盾が生じる物語だと立証するには、その作業が必要不可欠だったからである。先行研究に敬意を払うのはどの分野でも同じこと。

結論から言えば、私は本作を回想物語――文学で言えばいわゆる「回想文学(retrospective novel)」――としてではなく、反回想物語として読みたいと考えた。本作は再構成不可能な過去を扱い、それによって記憶の意義やあり方に対し切実な問いを投げかけているように思うからである。

では本題へ。物語の内容自体にはあまり踏みこみません。※本記事は個別√ほぼ終了・共通√未プレイでのレビューとなります。ネタバレはしてあるので内容はほとんど把握しており、またゲームとしての試みを概括する記事、という意味で“試論”としています。

 

●反回想物語としての試み

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ノベル・ゲームのマルチエンディングが反物語的であるというのは以前からよく言及されてきたことでもあった。個別ルートが存在する限り、ひとつの綜合された物語、たったひとつのtrue endは原理的にありえない*。『イマ』もそういった物語のひとつであり、しかしながらより踏みこんだ試み、すなわち再構成を拒む回想物語という、記憶の主題に本作は焦点を当てている。*このあたりは『動物化するポストモダン』で東浩紀が詳述している。

『イマ』では個別ルートが共通ルートの前日譚ないし後日譚となっており、どの個別ルートを“本当の”記憶とするかにより、物語全体の意義も大きく変化してしまう。なおかつ個別・共通ともに忍の記憶は曖昧であり、先人たちの努力の結果を鑑みるに、この物語にはどうしても矛盾点や謎が残ってしまうのだという。すると本作においては記憶というものを単なる事実/過去の再現と見ることができなくなってしまう。現代芸術について、「部分としては成り立つが全体としては成り立たない」(中村雄二郎『共通感覚論』第二章)と中村雄二郎が指摘した通り、本作もまた、各挿話が部分としてのみ機能するというポストモダン的特徴をもつ。忍の記憶は正しく再構成することができないため、各挿話そのものは独立して意味をもつが、物語全体のどこに位置づけるべきなのかを特定および確定することができない(あるいはそれが難しい)。

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だからこそ本作はマルチエンディングならぬマルチナラティヴと言えるのであり、プレイヤーにとって整合性がとれているのであれば、それがそのひとにとっての『イマ』という綜合された物語となりうる。いわば二次創作を一次創作と同一視する物語と言ってよいかもしれない。読者とのインタラクティヴを本質的なものとし、作者(あるいは作中人物)と読者の相互で物語をつくりあげる。だからこそOPでは「千々に撒かれたパズルのピース。どうか、優しく配列されますように」と謳われており、それはすなわち“プレイヤーが得心する配列”を意味する言葉なのであろう。

 

●精神病理の視座

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周囲と正しい時系列で記憶を共有できていない忍は、機械のように感情が希薄で、現実感を喪失した存在として描かれており、まるで離人症患者のような印象である。以前にブランケンブルクについての記事でも指摘したことだが、忍の心身は人間が当たり前に共有している感覚を喪失した状態(ブランケンブルクによって「自明性の喪失」と呼ばれたもの)であり、本作の場合はそれが「整合性のとれた記憶」に相当すると言えよう。

sengchang.hatenadiary.comより精確に言うならば、ある過去の出来事について、保持する記憶や経験そのものは各々異なるにもかかわらず、それらが同じ出来事の記憶や経験であるということを、ひとは当たり前に理解し共有している。それを可能にしているのが、中村雄二郎の言う「共通感覚」なのである。先の「自明性」とはすなわち共通感覚のことであり、ブランケンブルク木村敏は、離人神経症がひき起こされてしまう理由をこうした共通感覚の阻害に見ている。記憶を(あるいは自己を)統合するイマという存在がありながらも忍が病理に陥ってしまうのは、戦争をはじめ、自己の許容を超えたあらゆる物事と対峙しなければならなかったため、典型的な自己防衛の手段として、自己と他者の間をとりもつ感覚を切り離してしまったからだと考えられる。*離人症では本来記憶に障害が出ることはない。しかし忍のケースは、記憶障害と離人症状が別々の要因で、偶然にも同時にもたらされてしまったという例である。

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ベルクソンの想起的記憶(純粋記憶)について触れながら、中村雄二郎は「想起的な記憶とは、それ以前の行為とはまったく異なった新しい行為、行動の言語的な語りの行為であって、もとになっている行為そのものとはなんら直接の関係はない」と述べた(同掲書「第四章」)。語ることによって言葉となった過去の記憶は、当該の出来事を完全に再現できるわけではない、むしろ別物として捉えるべきだ、というのが中村の指摘である。この“語る”という行為は、本作では忍の腫瘍に宿るイマが担っており、彼女が忍の記憶を忍自身に直接語りかけることで、記憶をとり戻させるという“治療”の意味をも含みもつ。私たちプレイヤーは、そういった忍の治療の現場に立ち会うような形で、イマとともに彼の過去を追いかけてゆくことになる。

しかしプレイヤーは忍の過去を完全に再現することはできない。折に触れて欠けた部分を推しはかりながらも、完全に近い記憶を組みあげることしかできないのである。ここには、想起的記憶が実際の過去とは異なるという、中村の指摘を強く裏づけるものがある。このように本作は、再構成不可能な物語であるがゆえに、記憶と事実(過去)の乖離という深刻な主題について、改めて省みる機会を私たちに与えてくれる。

 

●付記

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部分としてしか意味をもたない、という話になると、どうしてもドゥルーズ+ガタリリゾームが思い浮かんでしまう。ハイパーリンクのはりめぐらされたネットワークが本作の要でもあり、そんな事情にもかかわらずほとんど誰もここに切りこんでいないのはなぜなのか。本作のテキスト内にはリンクが多く埋めこまれており、ひとつの挿話を読んでいる間に別の挿話に飛んだりすることもしばしば。しかし個々の挿話が寄り集まっても全体を形作ることはなく、あくまで断片と断片が結びついて延々広がり続けるにすぎない。これはドゥルーズ+ガタリの提唱したリゾームのモデルそのものである。このあたりについてはいつか詳しいひとが面白おかしく書いてくれるはず。いまの自分にとってはあまり意味のある主題ではないのでこの記事では華麗にスルー。

また本篇をクリアする目処がまったく立たないため、内容についての記事は書かないまま終わる可能性が高い。本論で改めて扱おうと思っていた切り口を少し出しておくと、人間から機械になって人間に戻る忍の境涯が面白いということ、さらには、忍の自己を統合するイマはまさに、木村敏の言うノエマ的自己とノエシス的自己を包みこむメタノエシスを擬人化したものであった。無事完走できたら、これらについて書く、かもしれない。

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