ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『運命予報をお知らせします』を読む(感想・レビュー)

f:id:SengChang:20161118010434p:plain

美少女ゲームのお約束を次々と脱構築してゆく教科書的な作品。ある意味で批評の集積とも言える批評的作品である本作はメタ・フィクションというよりメタ・クリティークとでも言うべきか。これはこれで面白い。

それから林檎と景色の造形がすごい。特に林檎は、ヒロインのうち誰も得られなかった“親友”という肩書きを手に入れることで自己を確立する。恋愛関係以外の解決を提示してくれる物語は本当によい。他作品でもこういう関係性はもっと大事に描くべきだと思う。『紙の上の魔法使い』でもこの主題がより丁寧に扱われていたのは記憶に新しい。

sengchang.hatenadiary.com

前戯はこれくらいにしていざ本題へ。絵が・・・・・・とか言っちゃだめ、ぜったい。

 

●物語構造という運命予報

f:id:SengChang:20161118010543p:plain

明らかに特定の個別ルートへ入っているのにそのヒロインを斥ける選択肢が出てくる。ここで素直に受けいれる選択肢を選べば個別のendへ、斥ける選択肢を選んで進めば夏帆endにたどりつく。そのため夏帆endを見るには明らかにフラグの立った三人のヒロインを次々と拒絶しなければならない。この選択こそが、誰かが幸せになるというのは誰かが涙を流すこと、という物語の主眼点を表すものとなっている。物語構造で物語の内容を語るところは『紙まほ』と同じ手法。美少女ゲームのマルチエンディングを物語論(narratology)で言う「プロット」と「ストーリー」の議論から分析するのはもはや定番である。

時間の順序では先に置かれたエピソードが、その後に来るエピソードによって事後的に意味を与えられることも、もちろんその逆の、時間の順序どおりに意味のつながっている場合もあるだろう。・・・・・・ストーリーの上では横一線に並んでいるあれこれの偶発事が、発端と結末を一挙にまとめるプロットの・・・・・・記憶の中に聞き手が身を置くことによって、あらためて必然的な関係として捉え直され、いわば垂直の次元に並び替えられる。(木村敏『関係としての自己』第Ⅴ章)※原典では下線部が傍点。

記事として出した作品であれば、『パルフェ』の里伽子ルート『何処へ行くの、あの日』のtrue end、『ソレヨリノ前奏詩』の永遠ルートなど、あるルートのendを見てしまったがために、別のルートが再定義されてしまう作品は珍しくない。しかしながら本作を単なるメタ構造の二番煎じだけで片づけてしまうのはもったいない。『運命予報』の物語構造は、マルチエンディングへの皮肉に終わるだけでなく、作中人物の内的葛藤とも親和性をもつ。

f:id:SengChang:20161118010532p:plain

ある個別ルートに入る過程を描きながらも、そこであえて選択肢を出し、ヒロインと友達になるか恋人になるかを迫るのは、両者の過程がまったく同一であるという前提を含みもつ。だが無論、実際はそうであるはずがない。恋人ルートに入る過程と友達ルートに入る過程が同じであってよいはずはない。それが同一になっているという誤りこそが、宗一郎自身の態度の誤りなのであり、これを指摘するのが最終的に満を持して攻略できる夏帆なのである。貫徹した想いをもたない宗一郎の心の弱さを完膚なきまでに糾弾し、夏帆は二度目の拒絶をする。物語構造が、マルチエンディングを楽しむプレイヤーへの揶揄から、友情と恋情を識別しない主人公への揶揄に、いつの間にかすりかえられてしまう。このすりかえが気づかぬうちに起こるため、後半になるとメタ構造は物語と自然に同化し、あたかも背景化してしまったかのような印象を与える。

f:id:SengChang:20161118010450p:plain

しかしこうした物語構造ゆえに、運命予報という本作のモチーフがきちんと貫かれる。作中で光が指摘したように、赤い糸メールを受信した宗一郎に、送り主である四人は結局のところ恋心を抱いた。そして個別ルートはもとより、最終的には夏帆とも結ばれるのだから、すべて運命予報通りなのである。これは先述の物語構造なくしてはありえない。ほかのヒロインを無惨に拒絶しなければ夏帆にはたどりつけないうえ、そのことに途中でプレイヤーは否応なく気づいてしまう。まさに物語構造そのものが運命予報となっており、プレイヤーの進むべき道を示す赤い糸となっていた。そして順調に事が運んでいった矢先に、本来うまくいくはずの告白の場面において、夏帆に拒絶されるという最後の脱構築が待っている。

このように本作では、複相的なメタ構造が随所で“運命”的展開を支え、のちにそれをうち崩すための下地となっていることがわかる。他作品ではメタ構造がただそれだけに終わることが多いなかで、心の摩擦や衝突をひき起こす、ある種のアクチュアリティとして構造=運命予報を現前させたのは面白い試みであったと思う。

 

●因果関係の脱構築

f:id:SengChang:20161118010539p:plain

過去は過去、現在は現在と、条件つきで自己を切り離し純粋に捉えなおそうとする本作。自己が不連続の連続であることを逆手にとり、過去をやり直すのではなく、現在と誠実に向きあうことで、未来と手を結ぶ自己をうち立てる。こうした点でも『紙の上の魔法使い』で結晶化する諸々の試みが片鱗として垣間見える作品であった。自己確立の主題については以下の記事にて詳述。

sengchang.hatenadiary.com本作において景色はクリソベリルに似た役割を担っている。宗一郎のalter egoとして機能する、彼の自己投影としての存在であるため、宗一郎が認めまいとする事実を容赦なく押しつけてくる。そういった意味で景色との対話はあくまで否定的自己を対象とした自己問答にほかならない。

しかしここでも脱構築は行われており、自己問答の末、弁証法的に解決策が導かれるかと思えば、解決はすべて他人任せ、という体たらくで笑える。執行部に入ること、選挙の当選も然ることながら、個別に入る告白もすべてヒロインからであるし、あげくの果てには仲直りまでヒロインのほうからで、四人のフラグが立つ契機さえ赤い糸メールがあってこそである。あれだけ主体性を説いておきながらなにひとつ自分から物事を動かせていないところは、まるで操り人形のようで気持ちが悪かった。夏帆の説得でさえも、林檎がメスを入れたうえで観月に喝を入れられるまでは、実行に移すことができなかった。残念ながら本作は、ご都合主義を否定する展開をくり返しながらもそれをのり越えた主人公が主体的な決断によってtrue endへたどりつくだの、運命による結末ではなく自らひき寄せた幸福として現実を再定義するだの、そんな物語ではないのだ。この皮肉が鋭すぎてそらおそろしい。

f:id:SengChang:20161118010527p:plain

タイトルからして「運命予報」と銘打ってあるわけだから、プレイヤーは当然、運命通りのゲーム的展開が覆されると思うだろう。だが実際のところは、慣習的手続きを次々と覆しながらも、それでも運命通りの結末にたどりついてしまうのだ。その意味で本作は、運命的過程を否定しながらも、その否定の手続きが運命的結末を手繰り寄せてしまうという、因果関係を解体する矛盾した物語なのだと言える。ことごとくお約束を否定しながらも、同じようにお約束へたどりついてしまうというのは、本当の主体性とはなにかという問題提起へと結びつく。これに答えようとしたのがルクルの次作『紙の上の魔法使い』であると言えるのかもしれない。

 

●付記

f:id:SengChang:20161118010439p:plain

正直なところ、この物語をどう捉えればいいのか最後までうまく答えが出せなかった。ゆえに『紙の上の魔法使い』への布石として『運命予報』を位置づけておいた。そのあたりも含めて本作に対する世間の評価がいまひとつなのはうなずけると言わざるをえない。

テニスで景色にぼこぼこにされた宗一郎を夕紀が慰める場面はとてもよかった。こちらが見たくないものを生のまま突きつけてくるあたりは、素材はやや異なるものの、瀬戸口に近いものを感じる。陰惨で情け容赦ない現実に立脚し、ままならない人間の負を丁寧に描出する手腕はすでにこの作品でも健在であった。この物語は景色がいてこそ成り立っており、みなが毛嫌いするのもよくわかるのだけれど、反定立を無視して成り立つ浅薄な物語など私は求めていないので、景色にはむしろもっとぶっ潰してほしかった。林檎と同じく本作で最も重要な人物のひとりである。

f:id:SengChang:20161118010429p:plain

その林檎の魅力を語る紙幅がもうないけれど、本作のメインヒロインは確実に林檎なのである。ただ彼女の潔さは宗一郎にとって少し都合のよすぎるきらいがあり、物語では彼女が抱くはずの負の感情は一切語られておらず、そこは『紙まほ』の夜子を待たねばならない。それでも彼女は、恋愛ではなく友情を答えとして出してくる貴重な人物であり、林檎自身が宗一郎の運命予報であったと言っても過言ではないだろう。