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ワザリング・ハイツ -annex-

どんなに忙しい毎日でも、紅茶を飲んで、ほっとひと息。

『天才柳沢教授の癒やしセラピー』を読む(感想・レビュー)

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友人が誕生日プレゼントをくれると言うので、じゃあおれに読んでほしい本をくれと言ったら、この本をくれた。ちなみに友人は臨床心理士である。私がいまだに通院しなくて済んでいるのはこの友人のおかげでもある。

それにしても面白い本だった。どうやら魅力的なおじさんというのが私の下半期のテーマであるらしい。『娚の一生』の海江田といい、『たまゆら』のおじさんたちといい、盛りを過ぎた大人の妙味がようやくわかる歳になってきた。

 

●悩める相手と“関係”すること

天才柳沢教授の生活』の魅力を余すことなく提示しながらセラピーの内実をラフにたどる。ここで言うセラピーの内実とは、悩みをどう聞くかという聞き手の姿勢を示したものが多く、聞き手の位置にはセラピストだけでなく私たち一般人をも当てはめて考えることができる。相談相手とどう関係するのか、それが本書の掲げるひとつの主題と考えてよいだろう。その意味で、相談者への教授の関わり方はものすごく“ズレ”ている、と著者は指摘する。

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言われてみればここで教授は明らかにずれている。九谷君と教授の対話に関する著者の読解は本当に見事なので、ここではあえて端的に触れるにとどめておきたい。いろいろな記事で私が“ゆがみ”として言及したものを本作の著者は“ズレ”という言葉を用いて考えており、『ぼくのたいせつなもの』で岡崎が冬木のゆがみをひき受けたように、教授は無意識に九谷君のゆがみを自身の問題としてひき受けている。しかしここからがちがう。教授はあくまで自分の興味が向いた部分だけをとりあげ、自身の好奇心を満たすためだけに解決する。だがそこで教授の出した答えが、偶然にも、九谷君の求めていた道を切り拓くのである。著者も指摘するように、ここにはある種の理想的な対話関係が描かれている。

悩めるひとが求めているのは、苦しさをどうすればよいかという「答え」ではなく、苦しさをわかってくれる「関係」なのです。(第一章)

疑問に挑む教授の飽くなき探究心と、相手の問題解決の姿勢とが協調し、不思議と対話が流れてゆく妙を、本書は丁寧に追いかけながら紹介してくれるのである。

 

●物語という“関係”

本作を読んで私がさらに想起したのは物語についての議論である。

自分の内面というのは、なかなかつかみどころがないものです。ですから、人は自分の内面にある問題や課題、あるいは意識に浮かびあがらせるのが困難なことがらを誰か他人に「重ね」て、その人と関わることでその問題に向きあおうとすることがよくあります。自分自身と関わるために、人は誰か対象を必要とするのです。(第二章)

物語に感情移入したり、物語を通して自分の過去や気持ちを整理したりすることは、自分の問題を物語の人物や出来事に投射して対象化し、改めて向きあうことにほかならない。

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バフチンが「共感」という言葉を批評にもちこんだわけはここにあり、読み手が物語とどう関係するのかを決めなければ――それがすなわち共感であるわけだが――物語は読み手にとってどんな意味をも投げかけてはこない。そもそも“読み”というもの自体が物語と読者の関係性を表すものだからである。自己というものを世界との関係(関わり方)だと述べたのは木村敏であり、ウィトゲンシュタインの他我論やヴァイツゼッカーの「ゲシュタルトクライス」もまた本質的にはここに根をはる。さらには西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」の考え方をもってすればこのあたりにきれいな橋をかけることができる。これについては『紙の上の魔法使い』の記事で述べた通りである。

sengchang.hatenadiary.com

 ●付記

本作にあるフロイト夢分析のくだりはもう何度も文学の分野でやらされたし私は反対なのでここでもとりあげなかった。メタファーの意味を重んじるため、精神分析学や文学ではことさら重要視されてきたが、私は意味よりも原因に興味があり、精神病理学的立場をとることに決めている。それはテクストを読む際にも変わらない自分の基本姿勢である。しかし著者はあくまで入門として、ある目的をもって精神分析的読解を行っているので、安易な精神分析批評とは異なることを念のため指摘しておく。

私自身は『柳沢教授』を読んだことがないのだけれど、時間をとって読みたいと思うほど、本作の著者は魅力的に原作を紹介しており、この本を読むだけでも『柳沢教授』の“妙味”は存分に味わってもらえるのではないかと思う。