ワザリング・ハイツ -annex-

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『キラ☆キラ』を読む(感想・レビュー)

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きらりという人物にびっくりするほど魅力を感じなかった本作。いやそれは私だけなのだろうか。『CARNIVAL』の理紗を見ている私にとってきらりの不器用は不器用とは言えない。そこのところをうまく表現する言葉をいまはもち合わせていないのだが・・・・・・ひとまずそれは措いておく。

確かに本作は瀬戸口の色を余すことなく感じられる作品だが、『CARNIVAL』で精妙を極めた“ゆがみ”について同じ角度から迫っており、『CARNIVAL』の主題をより一般的に語り直した作品とでも言いたくなるような物語だった。

sengchang.hatenadiary.com

 

●ふたつの「きらりエンド」:普通をめぐる物語

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世の正しさが排斥するひとたちの生を描く瀬戸口の作品では、道徳や常識が斥ける否定的な価値のなかで、自己をうち立てようと苦心する姿が描かれる。明らかに幸福には手が届かないとわかっていても、その幻影を追いかけることを選んだ学と理紗の決意は、世の中の正しすぎる正しさがいかに排他的であるのかを如実に示したものであった。ゆがんだ自己確立の過程は『キラキラ』でもふたたびくり返される。

キミら、上手くなって来たのは良いんだけれどね、ほら、演奏が変にまとまって来て、パンクとしてはつまんなくなりはじめてるじゃない? 気がついてる?

世の正しさと相容れないはずのパンクバンドが小さくまとまりはじめるほどつまらないものはない。殿谷の見解は、パンクロッカーであれば音楽と心中しろ、という古きよき絵空事を思い起こさせるが、本作ではこの主題が現実的な問題として語り直されてゆく。ひととちがう生き方とはなにか。あるいは普通に生きるとはどういうことなのか。それらを問いかける物語になってゆくのである。

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『キラキラ』にはふたつの「きらりエンド」が用意されている。火事できらりを失った鹿之助がバンドを続ける「きらりエンド1」、そして普通に大学へ進学して就職する鹿之助とデビューしたきらりの明るい未来(笑)を描いた「きらりエンド2」である。後者がtrue endとして、「エンド1」を見たあとにしかプレイできないようになっているところは、これでもかというほどの皮肉である。私の信頼しているサイトでも言及していたが、「エンド2」でまるく収めるほど瀬戸口の皮肉は甘くはない。どちらがtrueであるかという問題ではなく、あえて対照的なエンドを並置したところにこそ、現実的な作家の強い皮肉を感じるのである。

きらりを失った鹿之助は、大学にも行かずに片手間でアルバイトをしながら、村上たちと何年もバンド活動を続ける。高校時代の友人も就職し、バンドメンバーも就職活動で脱退したりと、現実的なしわ寄せから眼をそむけられなくなるなか、「バンドを続けることも、就職を果たすことも、どちらを選んでも楽しさという点に関しては大差のない人生のように僕には思えたが、誰か喜んでくれる人がいるなら、そちらを選ぶべきだろう」と鹿之助は考える。しかしきらりの幻と対話するうち、彼は自分のゆがんだ生き方を認めざるをえなくなる。

でも僕は、こういう形でしか生きられないんだ。人にはいろんなスタイルがある。

僕にとっては、多分、これが正しい生き方なんだろう。

・・・・・・

今でもときどき、ライブ中に客席の端っこだとか、楽屋の片隅に、きらりの姿を探してることがある。何もかもが全部嘘で、きらりとドラマチックに再会する。そんなバカみたいなハッピーエンドを、心のどこかで期待してたんだろうね。

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普通の生活はきらりのいない世界を輝かせることがない。鹿之助は絶対に手の届かないきらりのいる幸福を追い求めながら生きる道を選択する。鹿之助のゆがんだ生き方は、「あんたはイカれてるんやから、普通の生き方なんかでけへんのやで? この狭くて暗くて、どぎつい場所でな、そのイカれっぷりを存分に発揮して、それを売り物にしてく他にな、前島鹿之助がこの天と地の間で生きてく方法なんかあれへんのや」という、物語の最後でアキの口にする言葉によっても裏づけられる。きらりの幻影を追い求めて生きるという決意が、きらりを失った悲しみをのりこえる力となる。二律背反の姿勢を通じて自己をうち立ててゆく鹿之助は、「しっかりした社会人になって、誰にも恥ずかしくない人間になりたかった」(「きらりエンド2」)と述べてしまうような“まともな”鹿之助を頭から否定する存在であった。

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鹿之助の生き方はまた、きらりの家を救わなかった世の正しさへの抵抗でもある。貧困に苦しむきらりの両親は彼女に身売りさせる話を泣くなく受けてしまった。鹿之助はなんとかしてそれを阻もうと苦心するが、常識でどうにもならない問題であることを痛感し、はじめて世の不条理に突きあたる。のちに『つめたいオゾン』のなかで「このあまりにも公平な現実世界を、少し歪めて欲しい」と瀬戸口が書いたように、公平な世の中において、公平の犠牲になった人間は救われることがない。その現実にうちのめされた鹿之助がそれでもなお声をあげつつ生きる物語のあとに、世間にすり寄る生き方を選ぶ「きらりエンド2」が語られるのだから、これが皮肉でなくていったいなんだと言うのだろうか。

 

●付記

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書くつもりはなかったけれどまとめておくのも悪くないと思い今一度筆をとった。諸手をあげて『CARNIVAL』をすすめられない以上、代わりに本作をすすめるほかなく、でもやはり物足りなさを感じる。同じ主題をもう少しやわらかく表現する必然性はあったのか。はなはだ疑問である。

物語としてはずいぶん楽しめたし、むしろ瀬戸口作品入門としてはうってつけではないかと思う。“普通”や“正しさ”を横目で見ながら醜いものをあたためて生きる瀬戸口作品の人物たちは、世の中とどう折りあうかではなく、なにをよすがに生きるのかを切実に問いかけてくる。それに気づかず生きることのできる人間こそが幸せなひとたちなのだろう。

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